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貧乏は単なる状態だが、貧乏臭いは在り方の問題

若い頃は自腹ではいけないような高級レストランとか、高級バーに行くことが贅沢だと思っていた。そういうところは大抵、仕事の関係の歳上の人が、打ち合わせで連れて行ってくれた。時代的にも景気がよかったのでパーティーがあっちこっちで開かれていて、とある人の誕生日パーティで軽井沢のホテルに一泊2日ご招待なんてこともあった。
そういうことが何回か、あるいは何年か続くとわかることがある。そういった贅沢だと思っていたことが、実は自分にとっては全くもって豊かではなかったということに。

豊かさを考えるとき「高額なお金を支払ってサービスを受けること」と「豊かさ」が必ずしもイコールではないことを知っているか、いないかというのはとても大きいと思う。

お金の価値というのはとても相対的だ。「お造り1人前にビール中ジョッキ1杯に冷酒を一合飲んで4000円」を考えてみるとわかる。
4000円という金額だけを見れば、そんなにべらぼうに高い金額ではない。学生時代からこのくらいの飲み代は払っていた。ただし、宅飲みでお酒とか食べ物とか買い出して朝まで飲んでこの金額だった。その当時の私の感覚からすれば「これしか飲めなくて4000円って高くない?」だ。

だから社会人になって、打ち合わせやパーティで世の中で言うところの「高級」で「ハイソ」な場所に連れて行ってもらうたびに得したような気持ちになった。経験という意味ではとても良い経験だったけど、「得した!ラッキー」と思う自分の気持ちが非常に貧乏くさかった。貧乏は単なる状態だが、貧乏臭いは在り方の問題である。

貧しい心で得た贅沢は、自分を疲弊させる。私は毎日がお祭り状態の生活の中でどんどん心を蝕まれていった。人に気に入られること。評価されること。先行利益を得ること。一目置かれること。周囲をコントロールすること。
人との優劣の中でお金もまた優劣の証であるという感覚でそこにいる私は完全にヒモでしかなかった

高級、ハイソ、セレブと言われる世界が悪いのではない。
私の心が貧しいかったから、豊かな世界にいても、私は卑しく貧乏くさくしかその世界に触れることができなかった。心が貧しいとどんなに豊かな世界にいようとも気がつかない。自分の心の貧乏臭さが自分の世界を貧しくするのだ。

しんどい疲れるしんどいしんどい疲れたもういや

得だと思っても、ラッキーだと思っても、そこに行って、お互いに「この人は自分の利益となり得る人なのか?」と見定めながらいろんな人と話をすることが虚しくなって私の「心貧しい祭り」は終わった

そこまで行き詰まって、はじめて自分にとって豊かさとは何か?を考えることになる


お財布の中に2人合わせて1000円もなくて、友達と夜中にワンカップを分け合って飲みながら、仕事の愚痴を言い合い、「現場まで行く交通費ある?」とお互いに確認しあって別れる朝。あの朝の空気感の中に紛れ込んでいた安心感こそが豊かさであること。
1時間、顔を見て話をするためにタクシーを飛ばして会いに行く。そのタクシー代に1万円払うこと。その1万円の中に豊かさがあること。

尊敬する人の出版をお祝いするつもりで身内で集まったら、これまた尊敬する先輩が「何年も拗れていた離婚問題が決着して、自分にとっても門出の日だからここは払う」と行って奢ってくれた時の、あの決意の中に生きることの豊かさがあること。

損得では測れないもの。
そういうものを一つ一つ見つけるたびに私は回復していった


今、私は、お造り1人前にビール中ジョッキ1杯に冷酒を一合を一人でしみじみと飲むことやコンビニでビールとワインを買って、友達と夕暮れのビーチでナッツをつまみに飲むことが幸せと感じている。

でも、かといって「世の中、お金じゃない」なんてことは思っていない。
一流ホテルやバーで腕の良いバーテンダーさんが作ったショートカクテルには芸術的な感動があり、それに見合うだけの金額というものがある。


豊かさとはお金ではないが、豊かさにお金もまた貢献しているのだ。
そしてここがわかると「お金はどう遣うかが大事」ということも理解できるようになる。そして、それは自分のエネルギーをどう遣うのかということ同じではないのか?とも思っている。


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