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9.11旅行記⑨終 帰国後のこと

2001年9月、大学3年生の時に初めて海外旅行に行き、アメリカ同時多発テロに遭遇した時のことを残しておきたくて、旅行記を書きました。

<実際の旅程>
・2001年9月10日: 夜、マンハッタンに到着
・9月11日: 同時多発テロ発生、2機目突入を目撃し走って逃げる
・9月12日: マンハッタンを観光
・9月13日: 空港閉鎖、延泊。再びマンハッタンを歩く
・9月14日: ホテルでFBIが取り調べ。ホテルを移される
・9月15日: テキサスの伯父に送金してもらい、航空券購入、カンザスへ
・9月16~17日: カンザスの友達の寮に滞在
・9月18~19日: 帰国

1.翌日から学校

帰国後

帰国した翌日の9月20日(木)から、大学に行って、就職適性検査を受けた。その翌日から、後期の授業が始まった。
私はニューヨークで買ったお土産のチョコを、友達に配った。みんな、「アメリカに行くって言ってたけど、大丈夫だった?」とか、「ニューヨークに行ってきたの!」と驚いていて、私はテロを目撃したことなどを話した。
英会話の授業で、夏休みの出来事を話すことになった。私は、たどたどしくテロの話をした。話していると、だんだんクラスの雰囲気が暗くなっていってしまった。
先生はたしかアメリカ人の先生で、クラスのみんなに、米国の報復攻撃に賛成するか聞くと、反対の生徒が多かった。先生は賛成なので、罪悪感を感じると言っていた。

2.家族、親戚たち

テレビのニュースやワイドショーは、連日テロの話題ばかりだった。テレビに映るのは、飛行機が突入する瞬間や、タワーが倒壊するところ、道行く人々が粉塵で真っ白になっている姿など、ショッキングな映像ばかりだった。私たちが歩いた、落ち着いたマンハッタンの街の様子は、どこにも映っていなかった。
こんな映像しか見ていなければ、それは母も心配するだろうと思った。
あの日、日本で、同時多発テロの一報が入った時、家族は驚いて、私の泊まっているホテルがどこにあるのか、姉がインターネットで調べたら、ワールドトレードセンターからそう遠くないので、さらに驚いたそうだ。

帰国後、家族と親戚の間で飛び交うメールを見せてもらって、こんなに心配して大騒ぎしてくれていたのだなと思った。
母方の伯父(母の2番目の姉の旦那さん)は、週刊朝日の「犬ばか猫ばかペットばか」という、読者のペット自慢のコーナーに、猫のことを投稿していて、晴れて採用されたのだが、それが掲載されたのが、ワールドトレードセンターから落下する人を写した写真(The Falling Man)が表紙の号で、複雑な心境だったそうだ。
ワールドトレードセンターでは、逃げ場をなくし、あまりの熱さに飛び降りる方がいたという。

3.事件の全容を知る

そして私も、ニュースやワイドショーで、事件の全容を知った。
アメリカン航空11便は、9月11日、7時59分にボストンを出発し、8時46分、ワールドトレードセンターのノースタワーに突入した。乗員乗客92人が乗っていた。10時28分、ノースタワーは倒壊した。
私が最初に、自由の女神に行くフェリーを待っている間に、爆発音を聞いた飛行機だ。

ユナイテッド航空175便は、8時14分にボストンを出発し、9時3分、ワールドトレードセンターのサウスタワーに突入した。乗員乗客65名が乗っていた。
私がフェリーの上で、突入するのを目撃した飛行機だ。私はあの時、乗客が乗っていてほしくないと思ったが、そうではなかった。そして、もの凄い速さのままぶつかったと感じたが、時速約940kmでビルに激突したそうだ。
9時59分、サウスタワーは倒壊した。
私が逃げている時、誰かの叫び声で振り返ると、煙の中に、タワーの上の部分が沈んでいくのが見えた。私は逃げている間に、1つのタワーしか倒壊したことを認識しなかったが、おそらくサウスタワーの倒壊を見たのだと思う。もう1棟は、いつの間にか崩れていた。

アメリカン航空77便は、8時20分にワシントンD.C.を出発し、9時38分、ペンタゴンに突入した。乗員乗客64人が乗っていた。

ユナイテッド93便は、8時42分にニューアーク国際空港を出発した。乗客は、自分たちの飛行機がハイジャックされていると知って、犯人に抵抗したが、10時3分、ペンシルベニア州に墜落してしまった。乗員乗客44人が乗っていた。そして、この飛行機には、20歳の日本人の男子大学生が乗っていたことを知った。私は当時21歳で、1つしか違わない人が、その時どんな気持ちで飛行機に乗っていたのか、想像しようとすると胸が苦しくなった。また、私は、お金も航空券もなんでも誰かに助けてもらって、この方の状況を存じ上げないけど、1人で搭乗していて、自分とは対照的で、恥ずかしくなった。

飛行機に乗っていた人たちだけではなく、ワールドトレードセンターの中にいた人々、消防士、警官、ペンタゴンの職員等が被害を受け、死者は約3,000人、負傷者は約6,000人にのぼった。

4.飛行機を見ると

9月23日(日)、私は教職をとっていたので、翌週から介護等体験に行かせてもらう特別支援学校に、事前に下見に行った。
この日は曇りで、生温かい日だった。体内の熱気を外に発散できないような、だるさがあった。一面灰色の空に、飛行機が飛んでいた。私の眉間には自然としわが寄り、嫌なものを見る顔で飛行機を見つめた。セロリを食べた時に、勝手に顔がゆがむみたいだった。
私は、本当に飛行機が嫌になったのか、それとも、「私は飛行機が嫌になったのではないか」と考えているだけなのだろうか、と考えた。または、方向音痴の私が知らない場所にいて、曇り空で、体調が優れないからなのか。

5.写真を現像

旅行中にフィルムカメラで撮った写真を現像すると、日付が1987年1月1日になっていた。カメラが壊れていたようだ。でも、テロの日だけ、「11 9 ‘01」と正しく表示されていた。
デジカメではないので、現像して初めて撮ったものを見た。煙が立ち登るワールドトレードセンターが、しっかり写っていた。

6.夜、テロの夢を見る

私は夜、テロの夢を見るようになった。11月頃には、週に5日、夢に出てくるようになった。最初は、自分が見た光景を忠実に夢で見ていた。夜中、夢で飛行機がビルにぶつかる瞬間に、飛び起きることもあった。
でも、私は、それだけショックを受けたのだなと思った。あんな事件を目撃して、何も感じないより、ショックを受けるほうがまともだと思って、納得して受け入れられた。恐怖や感情がコントロールできなくなることはなかったし、自分は大丈夫だと信頼して確信していた。
夢の内容は、次第に変化していき、だんだん実際に見たものと違くなっていった。ある日見た夢では、学校の校庭のトラックを、首がとても長い2頭の巨大なキリンが、横に並んで、ドドッ、ドドッと地響きを立てながら走っていた。

11月下旬、夏休みにバイトした映画館(ワーナー)から電話があり、冬もバイトしないかとお誘いいただいた。私は、グレンおじさんに送金してもらったお金を返すため、12月からまたワーナーでバイトさせてもらうことにした。
ワーナーの人たちは、みんないい人で、ワーナーでバイトするのが楽しかった。12月1日に「ハリー・ポッターと賢者の石」が公開され、その翌日が、私の冬の初出勤だった。私はまたバックオフィスで電話に出て、ほとんどがハリー・ポッターの上映スケジュールや残席数の照会ばかりだった。一緒にバックオフィスで働いていた別の女性は、前日に1日中ハリーの照会の電話に出て、声がガラガラになったと言っていた。そのくらいハリーの人気は高かった。また、夏にもあった、「1日で3本観るにはどの順番がいいか」の人もまたかけてきていた。私は電話に出ながら、ノベルティの「モンスターズ・インク」の来年のカレンダーを、くるくる巻いて、きれいに紙で留めたりした。
ワーナーでバイトした影響か、テロの夢は、スターウォーズのような宇宙戦争の映画みたいな内容になっていき、次第に見る回数は減っていった。
ワーナーのバイト代は、借りたお金の返済や携帯代となって、右から左へと消えた。

7.1年後のホテル

アイちゃんは、来年もマンハッタンに行く!と言っていて、本当に行っていた。その時には、私たちが最初に泊まって、FBIが調査に来たQuality Hotelはなくなっていて、スポーツ用品店になっていたそうだ。

8.シンにメール

私は、シンに、2003年4月にメールを送っていた。テロの時、親切にしてくれて、チョコレートケーキを大きく切ってくれて嬉しかったこと、大学は卒業したけど、就職活動をしていること、シンは今どこにいますか?と送った。
シンは、自分のことはもう忘れてしまったかと思った、そして、シンも卒業したこと、でもまだカフェで働いているので、またいつでもケーキを大きく切ってあげる、と書いてあった。

9.ユナイテッド93

「ユナイテッド93」を、テレビで観た。ユナイテッド93便が離陸してから、ハイジャックされ、管制塔が混乱し、乗客が犯人に抵抗し、墜落するまでを描いた映画だ。私は途中から涙があふれて、そばに家族がいても、かまわなかった。怒りや悲しみなどの感情が高ぶったのではなく、静かに自然と涙が流れて止まらなかった。落ち込んだ時の涙に似ていたかもしれない。

10.9時11分

今も時計を見て、「9:11」、「21:11」だと、「あっ」と思う。ただそれだけだけど。

11.おわりに

私はこの出来事を忘れたくなくて、どこかに書き留めておきたいと思っていた。しかし、書くことが多すぎて、それに、きっとこんなインパクトの強い出来事はずっと覚えていられるだろうと思って、帰国後、手帳にメモを残して、「ここには書ききれないけど、きっと私は覚えていると思う。」と書いた。
でも本当は、どんなに強く印象に残ったことでも、ずっと正確に覚えていることはできないのだろうなと思っていた。
その後、旅行記を何度か書こうとしたが、思い出そうと意識すると、どちらが事実だったか分からなくなって、記憶がかきまぜられて余計に曖昧になったり、書くと、書いたものが事実になって、それ以外のことを忘れてしまいそうで、嫌だった。私は大事なものをできるだけ元の形のまま手元にとっておきたいと思う気質があるようで、それも関係しているかもしれない。
でも、それはいつまで経っても変わらないし、時間が経つほど記憶は薄れる一方なので、書きたいと思ううちに書いて完成させようと思った。
私は去年(2020年)、世界史を勉強し直して、この事件までの歴史、それ以降のアフガニスタン紛争、イラク戦争について、前よりは理解できるようになった。どうすれば状況が改善するのか、私には分からないけど、当事者以外の人も関心を持つことは必要だと思う。自分の身近にも、遠い外国にも、規模の大小にかかわらず、関心を持つべき問題はたくさんあって、全てにエネルギーを注ぐことは難しい。だから、私は少なくとも、少しだけど関わりのあったこの事件の行方や、関係する国やその文化について、関心を持ち続けようと思っています。

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