【エッセイ】息子の背中

次男が中学生だった時、こんな事があった。

入学式を控えた春休み、息子は「空手を習いたい」、と私に言った。
果たして息子にやれるのか、怪しいなと思いつつ、私は道場を探してみた。
ふと、長男が、「同じクラスに空手のチャンピオンがいる」と言っていたのを思い出し、私はその子に道場を紹介してもらうことにした。
そこは相手に直接打撃を与える、「フルコンタクト」と呼ばれる空手の道場だった。
初めて練習に参加する日、私は息子について行った。
力強い掛け声と、空手着を打つ乾いた音が道場の外にも響いていた。体に当たる鈍い振動が、入り口に立つ私と息子にも伝わってくる。息子は緊張しているようだった。
ぬるい空気に混じって、柔軟剤の匂いが流れてきた。
ここにいる中学生は皆、幼稚園から続けている有段者だった。彼らの中に入ると、息子はもやしの髭のように頼りなく見えた。

当時、息子は問題児だと言われていた。入学式の翌日から、私は担任の先生に呼び出された。その後も問題を起こし、警察に補導されることもあった。
私は、息子を叱る代わりに道場に行く日を増やすことにした。
最初は週に1度だった練習に、気がつけば日曜日をのぞいて毎日通うようになっていた。　
私は、決して練習を休ませなかった。
道場から帰ってきた息子の空手着は、絞れるほどの汗で濡れていた。裸になると体中が赤や紫色に腫れあがり、血が滲んでいる。拳は親指以外、両手とも皮がめくれ、口の中が切れていることもあった。
私は毎晩息子の空手着を洗いながら、非行など小さなことのように思えてきた。そして、この子がどんな問題を起こしたとしても、私が全て責任を取ろうと心に決めた。
息子は私に、いろんなことを話すようになった。半年を過ぎた頃、息子は試合に出ることになった。全国に名の知れた道場が主催する大会である。
初級の息子は、中級の相手に判定で負けた。だけど、次に出た試合では優勝することができた。その次の試合では、１戦目から強い選手と当たるようになっていた。　
ある日、道場で私は会長から呼ばれた。
大会の優勝者だけが参加できる「チャンピオンズカップ」に息子が招待されていると言う。　
私は、息子が出たら殺される、と思った。が、申込書を書いた。　

試合の日、会場内は殺気に満ちていた。
午前中、小学生の試合が3面のコートで行われていた。
私は、この子たちの試合が終わったら息子の番だ、なんてのんきに構えていたのだが、午後になってコートが全て片付けられた。そして、体育館の真ん中にボクシングのリングみたいなコートが１面作られた。一瞬にして会場の空気が張り詰めるのを感じた。
「ウソやろ」
私は、背中にぞくっと寒気がするのを感じた。足がガタガタと震えだした。心臓が喉を突いて出てきそうだった。
それでも、息子の腕に拳をぶつけながら、「かっこええやん」と明るめに話しかけた。
先輩にミットを持ってもらい、息子がウォームアップを始める。顔から血の気が引いているのが分かった。
息子は白帯で、相手は黒帯。私は空手を始めてやっと１０か月の子に何をさせるんだ、と今になって自分を責めた。
息子の試合が近づき、私と息子は係員からコートの脇に呼ばれた。
他の道場の選手や、保護者らがぞろぞろと周りに集まってくる。
向こう側に大きなガタイの男と空手着の少年が見えた。少年は左右にステップを踏みながらシャドーボクシングのような動きをしていて、その耳元で大きな男が拳を握りながら何かを言っていた。私と息子の後ろから、対戦相手は4年連続世界チャンピオンになってる子だ、と話す声が聞こえてきた。　
その時、会場の明かりが消えた。場内がしんと静まり、コートが照明で照らされた。アナウンサーが名前を呼んだ。隣の息子は、「おす！」と叫んだ。私は息子の背中を掌で叩いた。　
「行っといで」
息子は光の中に吸い込まれるように消えていった。