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強制するのかしないのか、子育ては悩ましい。

最近は夏休みの自由課題に協賛がついている。
例えば水道局や農協やガス会社なんかである。水道局は優勝するとマンホールにそのポスターを印刷してくれるらしい。農協やガス会社も独自のテーマがあって、入賞者には何某かのプレゼントなりが用意されている。これはぼくがこどものころにはなかった取り組みである。
 
いいじゃないか。キミたちもどんどん応募したまえと子どもたちに勧めてみるも、今ひとつ乗りが悪い。ただ単に学校の宿題として提出するよりもよほどよいと思うのは大人ばかりであって、子どもたちの消極的な姿勢はただの宿題だろうがコンペティションだろうが一向変わりがないのであった。
 
環境ポスターというのがある。これなんかいいんじゃないの描いたらと勧めたら気乗りしない声でじゃあやってみる、と。しかし何を描いたらいいかわからないという。例えばこんなのとかさあ、あんなのとか、そんなのとかぼくがアイデアを出していると、それいいねそれ描くなんて言っている。
 
これじゃあ確かに絵を描いたのは子どもだけど肝心要のアイデアはぼくの丸パクリということである。いいのかそんなことでと思うのであるが、描かないよりはマシなのかななんて思ったりもする迷える親である。ぼくは。
 
本人の自主性に任せてなんて言っていたらなにもしない。本当になにもしない。だから勧めたり強制したりあの手この手を尽くすんだけど、その度にこれは正しいことなのだろうかという葛藤に悩まされるのである。
 
子どもの気持ちも痛いほどわかる。僕自身なにもしない少年だったからである。自分がなにもしてこなかったのに子どもたちにやれというのはあまりにも棚に上げすぎである。一方で、ぼくのようになってほしくないという思いも強い。子どもは自分の分身などではなく、独立した一個の存在なのに、こういうところは恐ろしいほど似ているなと思う。似なくていいところほど似ていて、いやんなっちゃう。どうせならぼくに似ないで真面目な妻に似ればよかったのにと思うが、まったくもって不思議としか言いようがない。
 
さて、環境ポスターであるが息子が下描きをもってやってきた。ぼくのアイデアを丸パクリしたくせにそのアイデアを活かしきれていなくてぼくは大変不満である。そこでぼくがまたああしたらこうしたらと口出ししてしまうと増々息子のオリジナリティは失われていく。でもどうと聞かれれば言いたくなるのも人情である。
 
ところが今回は自分の絵をくさされたと思った息子が、いいじゃんオレが自由に描いたってといった。そうだよそうだよその通りだよ、とぼくは言った。キミが好きに描きなさい。思うように描いたらいいんだよ。それで上手く行くも八卦、行かないも八卦だ。ぼくの入れ知恵で賞を獲ったって嬉しくなんかないものな。
 
こうして息子が怒ってくれたおかげで環境ポスターは無事にぼくの手を離れたのであった。
 
と思ったら、まだ終わらない。
 
翌日になって色塗ったらと言うと絵の具を出すのが面倒くさいと言い出した。その一言でぼくは怒っちゃって、じゃあもういいよ何もしないでと言ってしまった。四つ切の画用紙まで買って用意してあげたのにと思ったが、そもそも自分からやりたいといったのではなくて、ぼくが無理矢理買ってきたのであった。やっぱり結局強制なんてうまくいきっこないんだ。強制するなら最後まで強制し続けないといけないのだ。途中から自主性に期待するなんて根本から考え方が間違っていたとぼくは悟った。
 
でもなにも言わないが正解なの?
ああ、子育ては悩みっぱなしだ。

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