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公衆電話の記憶

公衆電話はいっとき絶滅の危機に瀕したが、震災を経験したことで固定ライフラインの重要性が高まりかろうじて生き残った。二十年以上前ではごく当たり前にあった公衆電話であるが、あれよあれよという間に減少し、財布に定位置を締めていたテレホンカードが姿を完全に消して以来使った記憶がない。妻がテレカと言ったときに瞬時にテレホンカードの略であることを認識できずに、心の中で「え」と言ってしまった。


この写真は築五十年を迎えた団地の敷地内にある唯一の公衆電話である。以前は携帯電話を持たない(持てない)外国人がよく占拠して使っていたが、そうした姿すらついぞ見かけなくなった。

ドリフのコントで公衆電話は定番の小道具だった。長蛇の列ができているにもかかわらず無神経に電話で話し続けるひとに後ろのひとがついに怒り理不尽な揉め事が始まるというのがお決まりのパターンであるが、現代のひとにはまず公衆電話がなんたるかというところから説明をしないとわからない。

しかしそれがわかったところで電話順を待つというイライラを経験したことがないからこの面白さを本当には理解できないのであろう。

かつて小室哲哉は時代が変わると意味が通じなくなる言葉はこれからは使わないようにしたいと言っていた。「ダイヤルを回す…」「受話器をとる…」「電話ボックス…」、微妙な恋心を表現したこうしたツールが今のひとには通じない。そうした時代性を感じるセリフは古いもの、時代遅れのレッテルを貼られるのがいつも時代の先端を目指していた小室哲哉は嫌だったのだろう。

“電話ボックスに忘れたカセットできみのメッセージぼくに伝わった…”

TM Network(当時はTMN)の楽曲1990年発表のThe point of lover's nightという曲は冒頭をこの言葉で始まる。当時ぼくは中学三年生だった。この曲を聞くとそのときに感じていたことが眼前にありありと思い浮かぶ。ぼくは時代性を感じる言葉は嫌いじゃあない。それが若い世代に古いと一蹴されようとそんなことは大した問題ではないからだ。

人間は外界からの情報の90%以上を視覚から得ていると言われているが、記憶と密接に結びついているのは聴覚や嗅覚ではないだろうか。音楽はとくにその力が強く、ある曲を聞くとそれに付随して想い出が次々と蘇る。

昔観た懐かしい映画を今もう一度みたからといって音楽のようなことは起こらない。これがぼくが映像や写真を生業としていてもっとも歯がゆいところなのだ。印象や記憶への紐づけの強さという点で映像や写真は音楽にまったく歯がたたない。

だからぼくの音楽への憧れというのは常にあって、子供ができたら最初に聴かせる音楽はぼくの自作の歌にすると決めていたくらいだ(音楽家と違って自分の子供くらいしか発表する相手がいないのです)。

映像や写真と記憶への結びつきについて、音楽ほどにはならなくても少しでも強くできないか。それについて20年以上試行錯誤を続けてきたし、今も続けている。

今ぼくの手元には10数枚の未使用のテレカがある。災害時に使うかもしれないと思いとってあるが、できれば永遠に使わずに済みたいものだ。それに最新式(?)のグレーの公衆電話はテレホンカードが使えないようである。上野でイラン人が偽造テレカを売りさばいていたのも遠い昔々の出来事だ。

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