本屋で屁をこくオジサンたち
先日ひさしぶりに本屋へ行った。本を買わなくなって随分経つ。読みたい本があるとまず図書館で借りて読む。それでよほど面白くて線を引いたり折ったりしたい本は買うことがあるが、最初からまず本屋へは行かなくなった。本をあまり所有したいと思わなくなったというのもあるし、移住して近くに本屋がなくなったこともある。
有楽町の三省堂書店はかつて一番よくいく書店だった。勤務先が築地だったから。あの頃はまだ銀座ブックファーストもあって、どっちもよく通ったものである。三省堂書店が入る交通会館もまた想い出深い場所である。地下のラーメン屋とか階上の喫茶店とかパスポートの更新とかよく行ったなあと浸りながら全然変わらない店内を歩く。
雑誌を立ち読みしたり書架を眺めているとどこからか、ブリブリブリっと音がした。背中合わせで立っているオジサンが屁をこいたのだ。その屁音記号つきの音階でもって堂々と屁をこくのはオジサンに決まっているし、実際オジサンだった。
なぜオジサンは本屋で屁をこくのか。その屁を聞いて思い出したのである。本屋へいくとたいていだれかが屁をこいている。一度や二度の経験ではない。行く度にとは言わないが、8割がたの確率で屁こきびとに遭遇する。
大体堂々と公の場で放屁するのは60過ぎのオジサンと相場が決まっている。本屋という比較的静寂が保たれている環境でなぜ聞こえる大きさの放屁するのか。その歳になるとそれほどまでに羞恥心が欠落してしまうのか。雑踏にまぎれてとか騒音にマスキングされるようにとかいうのならわかる。或いはスカしっぺに変換して細長く放出するのならまだわかる。なぜ誰にでも聞こえるように音をたてて放屁してしまうのか。本人は音を出していないつもりなのだろうか。他人には聞こえないと思っているのだろうか。
しかし聞こえている。オジサン今屁をこきましたね。へーこきましたねあなた。
周りの人はどうかといえば、みんな聞こえないフリをしている。聞こえないフリをしてその場に佇んでいる。どうやらみんな屁はそれほど気にならないらしい。漂ってくる屁よりも立ち読みのほうがよほど優先順位が高いらしい。
思えば日本人ほど屁に寛容な民族はいないのではないか。幼い頃から屁は笑いの一部だった。屁をネタにしたお笑いがお茶の間を賑わせてきた。天岩戸に隠れた天照大神を呼び出すのに神々が性器をさらして笑いを取ったらしいが、その中にはきっと屁も含まれていたに違いない。もし西洋人が他人の屁を聞いたらあからさまに顔をしかめるか、軽蔑的な嘲笑をするのだろう。同じ笑うにしても日本人の笑いには温かみがある。オジサンはしょうがねえなあという笑いと、ドリフのコントを思い出すような笑いである。そういう笑いによってその場からギスギスした雰囲気が消えていく。もっとも声に出して笑うわけではないからみんな頭の中で笑っていて、その精神性がなんとなくその場を支配するという感じになる。
ぼくは常々日本人の欠点は徹底した不寛容さにあると思っている。ネット上では言わずもがなであるが、そうでなくても対人関係において自分の気に入らないものは絶対に受け入れないという空気がそこかしこにある。どうしてひとは「まあいいや」と思えないのだろうといつもぼくは思っている。まあいいやの精神があれば大抵のことは許せてしまう。許せるというかどうでもよいことになってしまうのにな。
不寛容であるがゆえにあちこちで諍いが絶えない。なにかと争いが勃発するのはほとんど不寛容が原因ではないか。ぼくはそうした日本人の不寛容さを憂いているのであるが、例外を2つ発見しました。
一つはエスカレーターである。エスカレーターは片側は歩かないひと、片側を歩くひとに分かれて乗るのがデファクトスタンダードになっているが、歩かない側の列への割り込みに対して日本人はとても寛容だった!
駅などで、縦に伸びた列の間に横から来たひとがぞくぞくと割り込んでいく。しかしこれに対して怒るひとはひとりもいないのである。それどころか適宜割り込ませることによってスムーズに列が進んでいく。もちろん後ろに並んでいるひとほどエスカレーターまでの到達時間は伸びるわけだが、だからといってだれも憤ったりしないのだ。やたらに不寛容な日本人がなぜこれほどまでにエスカレーターの割り込みに対して寛容になれるのか不思議であるが、現実にひとびとは割り込みを無言で許している。
2つ目はもちろん本テーマである屁である。日本人は屁に対して寛容であるだけでなく、おそらくある種の愛着まで感じている。だからといって誰もかもが人前でぷっぷぷっぷ屁をこく放屁天国ではないが、オジサンのうっかり漏らした屁にいちいち目くじらを立てたりしないのは、みんなどこかで屁は微笑ましいものという認識を持っているからである。
ぼくはこうした寛容さがもっともっと色々なことへ広がるといいのになあと思っている。まあいいじゃん。まあいいや。が増えれば不要ないざこざがぐっと減るに違いないからだ。本屋に来てそんなことを考えた。