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反ブランド主義|値段にしか価値がない物への嫌悪感

反ブランド主義。もうこれは「主義」と言っていいと思う。立派な「ism」である。

わたしは、ハイブランドに代表されるような「値段にしか価値がないもの」が好きじゃない。高級なバッグとかジュエリーとか時計とか外車とか。

好きじゃないというか、しっかり嫌悪感がある。ちょっと怖いのかもしれない。「あったかもしれない自分」、仮定法的な文脈における自分は、ブランド物にどっぷりハマっているような気もする。一生懸命働いて手に入れたお金で、ちょっと柄が違うだけの高級バッグを買い揃えているような気もする。それが怖くて、意識して遠ざけているのかもしれない。

ではなぜこのような嫌悪感を抱くのか。それは「ブランド品(=値段にしか価値がないもの)」を購入するという行為が、まるっと資本主義の中で行われるからである。決して自分で選べていない。そして「高級であること」を理由に購入しているのがまた頂けない。人生の価値である「時間」を、短絡的に浪費しているように見えてしまう。

①まるっと資本主義の中で行われている

いつの間にか憧れを募らせて、いい物だと信じ込んで、もしくは持つべき物だと思い込んで、欲しいと思って購入する。そこにある、ほとんどの感情が資本主義の範囲内にある。もとをたどると、人工的なところに行き着く。「欲しい」という感情にしめるマーケティングの色があまりにも濃い。作為が近すぎる。

もちろん全ての消費行動には外部的な要因がある。「便利だ」とか「必要だ」と感じる気持ちも、もしかしたら虚像なのかもしれない。それでもブランド品を購入するプロセスは、他者による「作為」が類型的に強い。

何より、高価であることを理由に購入していて、見栄の要素が強い。もちろん、100万円のバッグには、品質やらサービスやらに良いところはあるでしょう。でも、100万円するバッグがもし2万円で売られていたなら、多分あんなに人気になっていない。売値と原価の差は、よく言えばブランドの「夢」かもしれないけれど、結局のところ「見栄」でしかない。

言葉を選ばずに言えば「欲しい」を構成する根本的な欲求が短絡的で低俗的に思えてしまう。

そういえば、今日一緒にご飯を食べた先輩が「資本主義を脱しない限り、本当の人権なんてものは手に入らない」と言っていたっけ。

②人生の価値である「時間」を短絡的に浪費している

資本主義に支配された現代社会において、我々の持つ「お金」は「時間」に換算できる。誰も彼も、時給や月収のように「時間」を「お金」に換算するばかりで、「お金」を「時間」で測る意識が足りない。時給2000円の人なら、4000円の購買行動は、2時間を消費しているようなものだ。20万円の買い物は、100時間の消費。これは、1日8時間働くとして、12日半分。週に5日働くとして、2週間強。もちろん、仕事にはお金を稼ぐ以外の価値もあるけれど、お金がもらえないとしても同じ仕事をするのか。やはり(少なくとも仕事の満足度が5%の、現代の日本においては)「労働」の本質は、時間とお金の交換ではないのか。

「時間」は、絶対的な人生の価値である。「時間」は、今このときを一定に流れるばかりで、どう頑張っても取り戻せない。他人から「時間」を直接的に譲り受けることはできない。欲しくなった時に、他の価値と交換して「時間」を手に入れるなんてことはできない。それで、高価な物を、高価であることを理由に購入するのは、時間の浪費である。

私たちの価値は、私たちの人生にある。流れる時間をどう生きるかにある。

③ジャンクフード理論で本質を見失う

これは個人的な意見ですが、価値が薄いのに短絡的に欲求を刺激するものを近くに置いておくと、本質を見失う気がしてしまう。嗅覚が落ちる。自分で物事のよしあしを判断できなくなってしまう。

ジャンクフードと同じ要領で、栄養価が低いのに味が濃くてカロリーの高いものを食べ続けると、舌が馬鹿になる。砂糖たっぷりのお菓子やアイスを食べ続ければ、自然な果物の甘みを感じなくなる。同じようなことを、ブランド品に思う。


と、ここまで書いて、ある知り合いの顔が思い浮かぶ。頭の中で彼が「それは強者の理論だよ」と言っている。「『ブランドが好きじゃない』と違和感なく言えるのは、あなたが『買おうと思えば買える人』だからだよ」と。

「お金はあくまで『通貨』であって、価値交換の手段にすぎない。決して目的ではない」とか「付き合うとか結婚するとかの形式が先行してどうする。『実』が先にあってほしい」という私の主義主張に対して「それは強者の理論だよ」と言う。「それは『無い』人には言えない。その主張には、ある程度の前提が必要だから。」と言う。

まず、そんなアンサーができて、すごいなぁって思う。こんなカチカチの論(正論というか綺麗事というか)なんて、同意するのが楽なのに。そして、ありがたいなぁと思う。言われるたびに、たしかにそうかもしれないと、ちょっと反省する。私の発言に、触れられたくない何かを刺激される人がいるのかもしれない。でも私はやっぱりもう、現代の形骸化した資本主義にうんざりしていて、気を抜いたら飲み込まれるんじゃないかという恐怖を持っていて。だから私はやっぱり今日も、くだらない形式やら慣習やら価値観を、元気いっぱいに批判します。

【編集後記:すみません、今回は(も)かなり強めに出力してしまいました。】

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