下書きが41個たまっているので消化する②:短い文章×4
下書き消化シリーズです。こうやって吐き出しながらも、下書きはどんどん増えていくので結局減らない。
ちなみに見出し画像は全く関係ないですが、LINEスタンプ用に描いた絵でして、けっこう気に入っています。
一人称と二人称の揺れ
自分の特徴のひとつに「一人称と二人称の揺れ」というものがある。
一人称は基本的に「わたし」だけど、ちょっと仲良くなると「うち」が出てきて、さらに仲良くなると「ぼく」が出てくる。(そういやnoteでは「うち」「ぼく」もよく使っている。ここは自分にとって安全な場所であるということなんだろう。)飽きると、自分にてきとうなあだ名を付けて呼んだりもする。
二人称で顕著なのは、仲良くなると「お前」が出てくるという点。世の中では嫌な使い方をされることが多い言葉だけど、私は結構愛ある感じで使う。「お前らのこと好きだよ」とか「お前さあ!」みたいな。相手のことを「お前」って呼ぶようになると「おお〜、この人にはかなり気を許してきたんだな」ってちょっと嬉しくなる。もちろん相手は選ぶけど、他人との間に頑丈な壁を築いてしまいがちな私にとっては、心を開く準備みたいなものなんだろうなと思っている。
人称のゆれは、なんというか、呼び方を変えると角度がつくからやっている気がする。
キャバ嬢は「気が遣えると思わせるポイントを抑えている」んだなと思った話
一度、同業の先輩にお願いしてキャバクラに連れて行ってもらったことがある。たしかに「気を遣われている(もてなされている)」みたいな感覚があるんだけど、これはキャバクラの人たちが「気を遣える」のではなく「気が遣えると思わせるポイントを抑えている」のだなと感じた。オーダーする、ボーイさんを呼ぶ、おしぼりを渡す、お手洗いから戻ったときにもおしぼりを渡す、お酒をつぐ、グラスの水滴を取る、このあたりは絶対にやっていた。
「仕事ができる人」も構造は同じかもと思った。あと、デートのマナーと言われる事柄とかもね。いくつかのチェックポイントを抑えておけば、それっぽく見せることができる。
身体からのアプローチの重要性
ここ最近、自分の精神をどうにかしようとするんじゃなくて、身体からのアプローチをするのってめちゃ大事だなぁと思っていたんだけど、誰かとの関係性においても同様だなと思うことがあった。心では縮まらない(縮まるのにえらい時間がかかる)距離が、身体的接触で一気に縮まる。色んなギクシャクしていた感情が、スルッとあるべき場所に収まったような感覚がある。
「名前を付けること」は良くも悪くも感情を小さくする
ずっと大きな「死にたい」を抱えて生きる人生だったけど、大学生になった頃に「希死念慮」という言葉を知って、自分の中の「死にたい」をかき集めてコンパクトになった感覚があった。それから「あーあーここ数日ずいぶん希死念慮が強いねえ」みたいに、わりと感情を俯瞰して見られるようになった。
「不安」とかもそうですよね。自分のぐるぐるした感情に「不安」という名前を付けると、水の中に広がった絵の具を逆再生の動画でチューブに戻すみたいに、「あれこんなに小さかったんだ」となる。
でも自分の大切にしている感情だとか出来事を簡単でありきたりな言葉でまとめられちゃうと「やめてよ!!」ってなる。すごくつまらないものみたいに見えてしまい、悲しくなる。
きっと短い名前を付けると、大抵のものはコンパクトでありきたりなものになってしまうんだ。
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