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年間リトリートのエネルギーワークが不安だった私がちょっと変わりかけてきたこと。

今月、年間リトリート3期の中盤に行われたMOTOKOさんのエネルギーワークが代官山で行われました。これ、私正直不安だったんです。

実は去年京都のリトリートで受けたワークの際に、周りに圧倒されてただただ終わってしまった経験が若干トラウマになり、というか、やたらとそこにこだわっている自分がいました。

何か明らかに出てくる変化がある方が分かりやすいだけで、何もないわけではないことはわかってはいるけど、どうしてもわかりやすい「変化」というカタチを求めてしまいがち。

でも、今回はできる限り自分をフラットに、変化も心地よさも何も求めず、ただその空間に自分を漂わせてみようと思い、結構リラックスした状態で会場に入れたと思います。

が、スタートして一転。

いきなりの周りの変化にまたまた圧倒されて、京都の時と同じように「え?なに??もう???」と周りに意識が飛ぶ。

ああ、またか。

と思ったけれど、自分に集中したり、音楽に集中したり、何も考えないようにしようとしたり。瞑想の練習もしていたけれど、なかなか思うようにはいかないものですね。

そんな心のせめぎ合いの中、途中で一気に涙が込み上げてきた瞬間が訪れます。今思い出せることは、その時亡くなった父が現れたこと。そして、その涙は寂しいというよりも「ごめんね」の気持ちが強かったよう。

それは否めない。
幸せになれなかったことにずっと後悔と謝罪の気持ちがあった。
ああ、だからか。私は謝りたかったのか。
そう受け入れたら、また涙が溢れる。

ひとつの音楽に導かれてそこにたどり着いたように思います。そして、嗚咽を止められない私をただそっと胸に手を当ててくださるだけで、安心してさらに涙を流せる許しを得られた感覚でした。

前半の波が落ち着き、今度は後半。
何がきっかけだったかは覚えてないけれど、また涙が溢れてきた。今度は父や祖母や犬たちとご先祖さまですね。前半と違う涙。

今回は「感謝」に溢れてた。
私はずっとたくさんのご先祖さまに見守られているんだを信じてはいるけれど、それがいつの間にか当たり前になっていて、忘れていた「ありがとう」の気持ち。それを思い出させてもらった感覚でした。

終わってみて、なんだかスッキリしたなぁの一言。
穏やかな自分とホッとした自分がそこにいました。

なぜなら、私はいつしか涙が流せなくなっていたから。
いつから何きっかけかわからないけれど、人前でも泣けない、映画みても泣けない、お葬式でも泣けない、喜んでも泣けない。

泣かないではなく、泣けない。と思っていたけれど、それは「泣かない」を選択していたのかもしれません。

泣けることが正しいわけではないけれど、やはり感情をどこかでコントロールしていたのかなとも思うし、やっぱり悲しいときは泣いてみたいと思っていました。

そんな私が一体いつぶりに涙が出せたのだろう。そう、「出る」というよりも「出せた!」。ボルトが外れて一気に「溢れた!」という感覚ですね。その明らかにわかりやすい反応が自分でできたことにホッとしたという感じでしょうか。

そう、まさに安堵したのです。

そしてこの日は日帰り東京で、最終便までギリギリもう1セッション受けられたため追加で申し込みをしていました。

1回目で何かしらのエネルギーの渦に自分を委ねられたことに安心できたので、ゆっくりランチしてから挑んだ2回目。

これがとんでもなかった。。。

何度も受けている方もいるからなのか。すでに準備をしてこられていたからなのか。だからすぐに飛び込めるのかは私には未だわかりませんが、私からするともう凄まじい反応。(反応というのがふさわしい表現なのかすらわかりません)

私の意識を全部周りに持っていかれた感じでした。

またはじまった、私の集合意識。周りに気を取られると、スンと自分を閉じてしまうクセ。またすごい速さで自分を閉じてしまった感覚です。

あの時のあのスンと閉じた感覚すら、閉じていたのかすらもうどちらでもいいのですが、たぶん閉じてしまったんだろうなと思います。

後日感想

前半はまだ1回目の経験があるから、この音楽好きだな、とか、あ、この曲でさっき溢れてきたなとか、もう変な慣れに包まれていて、ある意味リラックスはできたのでしょうけれど、意識は自分集中ではなくやはり周りに飛んでいたと思います。

後半、もう周りの反応の変化についていけない自分がいました。ついて行く必要なんてないのにね。何もジャッジしなくていいと頭ではわかってます。でも止められない。最後の方はただただ周りの反応に圧倒されて終わっていきました。

1回目の自分にやってきた、わかりやすい「涙」という反応。
泣くことができたことに安心するって変かもしれないけれど、周りが感じているのに自分が感じることがない、ちょっと取り残された感覚って不安でしかない。

そんな感じ。わかりやすいのが私は安心するようです。
だから始まる前はそれが得られるかどうかで不安だったという気持ちでした。

こんなジャッジも要らんって言われてたけど、長年のクセだからある程度仕方なしと思いつつ、ジャッジしない自分になっていきたいと今は感じます。

後日感想

そして、2回目の「スンと自分を閉じてしまった」私、せっかくの時間にもったいなかったなぁというただただ自分に対する残念感。

もしかしたら閉じたと思っていただけで、エネルギーの渦の中には間違いなくいて何かしらの反応は起きている、もしくはこれから反応があるのかもしれません。が、そのときはただただ圧倒されただけで終わってしまったという気持ちだけが残っていたように思います。

後日感想

感じる、感じない
感じているという勘違い
感じていないという勘違い

ひとそれぞれなのはわかってはいるけど、自分にとってわかりやすい答えが相変わらずほしい人なんだな私。という実感。

そして帰りのフライトがまさかの2時間半遅れ。21時半には家路についているはずの帰宅がなんと0時。どっと疲れが出ました。

次の日会社だったのでちーちゃんにもらったエプソムソルトのお風呂に入ってすぐ寝ました。そして、この流れで翌日仕事帰りに夜行バスで福岡入りした私。そこでこれまでにはなかった反応がありました。

※これはまた別の投稿で記す予定です。

いつの何が作用しているかはわかりませんが、そんなことはどうでもよくなってきましたね。この年末に起こっている自分の変容はそれとして楽しみ、自分の中でその感覚が得られていることが面白いわけで。

これをしたら、こうなる

というありきたりな反応だけがすべてではない。反応があってもなくても、それはそれ。自分の受け入れ態勢が整うのを待つだけのこと。

って、わかっているけれど。ついつい忘れがちなのです。まだまだ自分にフォーカスしきれていないことは、ある程度自覚してますがちょいちょい露呈しますね。

だけども、この年末。なんかいろいろ変化があって楽しいから、まあいっかって思えてきました。


この不安ってなに?

ここまで書き出してみて、何が不安だったのだろうと思いますが、ただあの時に感じた不安感と残念感は、自分の外にこうして出しておきたかったようです。

「不安」というとネガティブな印象になってしまいますが、それも私が感じたことだから、ワタシは不安を感じていたのでしょう。

エネルギーワークというものに自分を委ねるのは、これはもう自分で経験していかないとなんともいかないわけで、そこにいろんな葛藤があって、いろんな体感があって、いろんな感情があって。それで今回は一旦はいいんじゃないかな。

そういう感覚を得たという自分の経験ができただけのことなだけでいいのでは?そこには確かに、ジャッジは要らない。良し悪しではなくて、ただそうだったいう事実だけを受け止めればいいのかと。

みんながみんな同じように感じるわけではなく、感じる必要もなく、みんな違うんだなと。どうやってもまだ私は「ワタシ」に集中できない様子。
なかなか難しいですね。この意識。

ただ思うのは、

翌々日訪れた宗像大社での時間。
たったひとり、ただひっそりと感じる時間を得られて、そこで込み上げてきた感情は、まぎれもなく”私の中のワタシ”の感覚だったということ。

忘れていたのか
思い出したのか
取り戻したのか
今生まれたのか

そこはよくわからないけど、溢れてきた感情を受け止めて今はただそこに漂いたい。そんな感じです。

吐き出す、書き出す、解き放つ、受け取る

このプロセスを経て、またひとつ課題ができたのかなと思います。

MOTOKOさん Akkoさん Marikoさん Kanaさん
ありがとうございました。


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