兄弟の命を救うため仕方なく人魚を食べさせた説ないわいろんな意味で(葉っぱ兄弟説検証)
イヤ、まだわかんないけどね今現在ホントのことは。
でも安易にその設定考えちゃうかー。だってそしたら、兄弟、つまり、「性別や有性生殖、ひいては家族を単位とした共同体を前提にした概念」が、初登場ってことになっちゃうのよ?ここで?ンー?エ?エ?(ウザ)
そもそも、これウロコの発見に動揺した「良きちい民」発の、葉っぱたちを信じたい!という(謎の)希望的観測から生まれた話なんだけど、不老不死願望じゃなく家族を救うために人魚食べたなら同情の余地ありとか許されるとかってさあ、結局言葉や社会性を持った生き物がより高尚で生きる価値があるっていう上位捕食者側の独善的な価値観だからね。逆にしてみたら論理的には明快だけど、ちゃんと出来るゥ?逆に。(お?)
ナガノはフラットにヒトという生き物を見ているところがあり、そこは同じ漫画家であるKAKERUにも通じるな、そして明確に違いもあるな。
あ、これまたネタになるわ。
脱線したけど、そのナガノが、ここで設定変更したり、偏った視点からのお涙ちょうだいとか選ぶなら、なんか理由がないと納得出来ない。
話戻して。
振り返ってみるとナガノの真骨頂は対比構造なわけで。
僕はやっぱり葉っぱたちは友達なのではないかと思っている。
友達だからこそ、ちいかわたちとの対比が成立する。つまり、「いつまでも絶えることなく友達でいよう」というちいかわたちと同じ純粋な願いが、片や純粋であるが故に一線を越え結果として周囲を巻き込んだ不幸を招くという、切なくなるような対比構造。
読者はこの対比に、ちいかわたちもそうなっていたかもしれないと想像させられ、何が明暗を分けたのかを否応なく考えさせられるだろう。
こう捉えてみればやはり、「昔話で言うところの因果応報や勧善懲悪などの道徳性に当たるような、読み手への明確なメッセージ性」が見え隠れしてはいないかナガノ表現。
ナガノならではの超展開や笑いの中に、僕らに刺さる生命賛歌や、人間社会を俯瞰する無常観が読み取れる気がする。
この辺は各長編をそれぞれナガノ解析にかけて後日また語ることになるだろう。わーーー楽しいーーーー。
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