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モブと顕現と「ナガノ表現」(ちいかわ解析)

前回の話題(モブと「顕現」)の続き。
「ちいかわ」において顔がないこと、セリフがないことは、表情がないことではなく、言語がないことではない。モブたちとメインキャラクターたちとの意思疎通が成立していることから考えても(ハチワレの異次元の翻訳力は別記事にするとして)モブの表情や音声が、あくまで読者には見えない、聞こえないというだけに過ぎないと解釈している。

分かりにくい内容からサラッとはじめてしまったが、重要なポイントなので繰り返しておく。

モブの表情や発言は、僕らにだけ、見えていない。
このことは彼ら自身が、僕らの目には幽霊のように、メインキャラクターの放つ光の生み出す影として見えているのか、あるいは僕らの目にモヤがかかっていてそれを知覚出来ないことを示しているのか、とにかく僕らは観客として、ある意味キャラクターたちのカヤの外にいる。

ナガノだけがそのカヤをくぐり、モブをモブのまま「暮らしたい」を描く。するとメインキャラクターの背景になるはずだった彼らが、僕らにとっても(顔や言葉が見えないというだけで)ちいかわたちと同じ存在=「ちいさくてかわいいやつ」になる。
ひとりひとりが懸命に暮らし、泣き笑い、歌い踊り、時に命を落とす。物語において替えのきかない存在となり、そのうちの何体かは明確な背景と人格を持った「選抜モブ」となって表舞台に立つ。

これはもはや従来の「モブ」概念を逸脱しており、ナガノが(おそらく明確な意図を持って)マンガにおける既存の表現手法を逆手に取り、新たな表現をひねり出したといっても言い過ぎではない。
そのことで僕らは、モブたちの汗や涙、震えやバタバタした腕や足の動き、奇声や感嘆符、多種多様な漫符をヒントに、自らの想像力を最大にして彼らの表情や発語を、感情や状況を読み解く羽目となった。その結果、これが生まれた。
これ、「考察」と呼ばれる「読み手各々の解釈」である。

ここで一旦本編(現行の島編)に思考を移そう。
ちいかわ族にはモブがいるが、キメラにはモブがいない。さすがにキメラ(=いくつかの生物の特徴を併せ持つ怪物)だけあって、個々のキメラが突出した容貌を持ち、ちいかわ族のシルエットがパターン化しているのに対し、キメラは複合生物という以外に似通った身体的特徴を持たないこともその理由の一つだろう。
さて島編、葉っぱが人魚を食べたとしたら、美味しい食べ物、食べること食べられることが重要な柱となっているこの物語で、意図を持って食物連鎖を覆す存在が現れたことになる。キメラを食べたちいかわ族が果たしてどうなるのかは単純に興味深い。
第一に考えられるのは、「おいしかった!(・・・何も起こらない笑)」だが、次に考えられるのはやはり「キメラ化」だろう。
これまでキメラ化とは一段上の捕食者になることを意味していた。(友好型キメラについては、鎧族が彼らを放置していることを考えるとちいかわ族の食材と同じものを食べている可能性もあるが・・・)
友好型・擬態型のいずれにせよ、前述したようにキメラにはモブがいないのだからキメラになれば顔を得ることになる。その時、「こころ」や記憶、自我はどうなるのか。言葉は残されるのだろうか。あるいは「言葉の獲得」は起きるのだろうか。

「顕現」とは異なり、キメラとなって表情や発語を得たとしても、それはもはや元の彼ではないかもしれない。note「山月記×ちいかわ」で描いたように、「キメラ化」が捕食者の階段を上ることである以上は、その食性の変化が性格などの内面の変質に波及することは避けられないのかもしれない。
現に、ちい民に嫌われがちで「中身はキメラのまま」と言われるモモンガですら、「うまみ」が変わることで、うンまい物をくれる他者との関係性を築き、うンまい物を手に入れる社会性を身につけてしまったのだから。まあこれは、よく言っても片利共生や、共依存か・・・フツーに見たらただの強奪だもんな、アレ。

また、「ともだち」や「なかま」をつくることはないように見えたキメラも、(「あの子とでかつよ」は例外として)セイレーンが人魚を従えているのを見ると、ある程度仲間や群れをつくるケースがあるようだ。葉っぱがキメラ化したとしても、あの二人なら「絶えることなく友達」でいられそうである。

解析に戻ろう。
このように、ナガノならではの新たなモブ表現は、キメラ化や「顕現」という手法により、これまで読者に文字通り「見えていなかった」そのキャラクターの一面を、文字通りの「怪物」として描き出したり、文字通り「顕現=ハッキリと見えるように」してくれた。
だからこそ気になるのである。
このモブは・・・キメラ化したらどうなるのか?顕現したらどうなるのか?
見た目は?性格は?言葉は?社会性は?

そしてその時・・・
僕らはどうなる?

まさに「君ならどうなる」(オマエ・・・これが言いたかっただけの流れだよな・・・)

ただでさえ顔や発言が見えないことで考察せざるを得なかったモブたちに、「キメラ化」という変質や「顕現」という表現の変化が与えられることは、僕らがヒントを得たり、あわよくば予想や推測の答え合わせが出来るチャンスなのだ。
こんなの、気になって気になって、考察せずにはいられない、妄想せずには、誰かと共有したり話したりせずにはいられないに決まってるッ!(ボッチのオマエを除いてな)
その仕掛けを、ストーリーや設定に謎を残すだけでなく、従来のマンガ表現を駆使した上でいとも簡単にとんでもなく鮮やかに披露される「新たな表現技法」によって仕込んでいく。
これこそがマンガを愛し、マンガに愛された漫画家「ナガノ」の真骨頂と言えよう。

いやー今回初めてリンクとか太字使って見たけど、イイわコレ。つかお。(おぼえたぞ)


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