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ほんとうは「成果をみる人」だと思うんです

タイトルは、先日受けた強みコーチングのセッションの中でもらった言葉だ。

セッションをしてくださったのは、高坂仁美さん
ツイッターでご縁をいただき、感謝企画に当選して、このセッションをプレゼントしていただいた。

この言葉をもらったのは、セッション後半に差し掛かったころだったろうか。
事前に提出したシートの内容や、セッションで私が話したこと(内容というより、話し方や伝え方)からのフィードバックだった。

「本当は『成果をみる人』だと思うんですよ」

成果をみる人。「物事のプロセスよりも、成果に着目する人」という意味合いだ。

何かを質問されたときの、私が一歩引いた視点から事象を伝える様子。
自分の過去からの変化についても、その過程ではなく、「昔はこうで、今はこう」とその結果を伝える様子。
それらから、「成果をみる人」だと伝えてくれたそうだ。


そんなはずはない(笑)

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そう聞いて、心に湧いたのは違和感や抵抗感だった。

「私は、結果よりプロセスのほうが大事」という価値観を持っているはずだ!

正直に言うと、この違和感を高坂さんに伝えるかどうかは、少し迷った。「そうなんですね、考えてみます」とさらっとかわしておこうかな、とか(笑)。

(その場が、思ったことを言いにくい場だったわけではない。でも、初対面の人に「しっくりきていないです」と言うのは、少し思い切りが必要だなと思うのだ)

でも、結局私は、それを言葉にした。高坂さんに話していたけれど、自分が聞きたかったのかもしれないなと思う。


「成果」がないと生きていられなかった

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昔の話になるけれど、私は子ども時代から何十年も、「人に認められる」ことで自分の存在価値を感じてきた。逆に言えば、「人に認められないと価値がない」である。

認められなければ存在価値がないのだから、人に褒められるかどうか、「すごいね」「頑張ってるね」と認められるかどうかは、(心の)死活問題だった。

だから、「認められるようなこと」を目指すようになる。人がどんなことをすれば褒めてくれるのか。それは人それぞれだったりするので、私は確実に認めざるを得ないような結果・成果を出して認めさせるぞ!と考えるようになる。
目指したのは、分かりやすい数値結果だった。学生時代なら成績(試験の点数や順位)、大学のラクロス部なら試合で自分が決めた得点。社会人になってからは目標売上の達成度合。

それが出せなければ認められない。つまり私は価値がない。そんなメカニズムが機能していた。
だから、いつも、数値に感情を振り回されて生きていたのだった。売上の良い月は「楽しい!天職!」と心から思い、売上がなかなか上がらないと「もうダメ…」と落ち込み胃腸の具合も悪くなっていた。

それに気づいたのは、10年ほど前だった。おや、もしや私はこんなメカニズムになっているのでは?と。
それまで「人からの評価がすべて」という世界にどっぷり浸かって生きていた私が、「ん?ちょっとおかしいかも」と思い始める。

人からの評価で私の存在価値が決まるのではない。人からの評価はあるけれど、それが全てではない。
それよりも、自分が自分の価値を認めることが最優先なのではないだろうか。自分が「これが軸だ」というものを大事にしていけばいいのではないだろうか。

その考えが、私にとって自然なものになっていった。そして、とても生きやすくなった。自分が自分を認めたら、こんなに楽に生きられるのか!!


「成果」をみると、生きるのが苦しくなる

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30年近く共にあったメカニズム。それはなかなか辛い生き方だったけれど、その体験があったことで、「自分が自分を認めること」「自分が感じていることを受けとめること」の大切さを実感することができたのだと思う。
ほどなくして私は、「あなたの良さがみえるcafe」というワークショップを始め、自分の内側の答えを信頼することに取り組むことができる「よさカード」を創ることになっていく。

あの30年弱と、今から10年ほど前に気づいて「人の評価」を基準にするのを手放した体験は、私の人生にとってどちらも必要だったのだな、と思う。

そんなことも振り返りながら、強みコーチングで高坂さんとお話する中で、ひとつ分かったことがある。
10年前に大きな気づきを得たとき、私は「成果をみる」「結果にこだわる」をしていると生きるのが苦しくなる、と解釈したのだな、ということだ。

「成果」や「結果」は、人からの評価のものさしだ。もう、それを気にすることは手放そう。
「成果」を意識していたら、また生きづらくなってしまう。成果や結果でしか自分の価値を感じられないのは、もう嫌だ!
結果よりもプロセスを大事にする価値観がいいじゃないか。

そう、思い切り、反対側に振れたのだ

これが、「成果をみる人」という言葉に対する抵抗感の理由だった。


「成果」の再定義をしたい

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「『成果』をかなり狭義に捉えているんじゃないですかね」

30年ほどのあれこれと、10年前の気づきを話した後で、高坂さんはそう言った。

たしかに、そうかも。「成果」と言えば、人に認められるために分かりやすい数値で表せるもの。人からの評価のものさしとなるもの。

そして私は、「成果」も「結果」も、人生を苦しくするものだ、と悪者扱いをしている。

「成果」の定義もイメージも変えたい、と思った。

昨日の自分からちょっと変化した、こんなことに気づけた。それも「成果」と言っていい。
「こんな風になりたいな」という理想の姿だって、目指す「成果」と言っていい。

「成果」に数値が含まれる場合だって、決して悪者にしなくていい。それは単なる数値の目印だ。私を生きづらくさせるものではないし、それが私の価値を決めるのでもない。

こうして、何十年も前から今までを(頭と心の中で)行ったり来たりしながら、ここにたどり着いたのだった。

思いっきり「成果」に依存していたところから、真逆に振り切り、10年が経った。右の果てと左の果てを体験した私は、そろそろ真ん中に着地したくなってきたようだ。

そこは、「成果」「結果」をニュートラルに受けとめる場所だ。
探り探り、そこに立ってみようと思う。


ツイッターでもつぶやいています。




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