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火星のクリーニング店

私が東京に滞在するエリアは交通の便が良く、仕事の都合であちこち移動する生活にはとても便利。そういう立地にありがちなように、居住区的な落ち着きは全くないので「あんなところに住むんだ」と女友達に微妙な表情をされたこともある。会社や店舗の入るビルがひしめく街の日中は人通りが激しくにぎやかだけれど、夜になると昼間の喧噪が嘘のように空っぽに変わる。

帰途につくたび、我が家に戻ったというよりも、何かの理由で人類がそっくり蒸発したSF物語の舞台に迷い込んだ、というほうがしっくりくる無機質な街並み。ぽつりぽつりとごく少数の住人の部屋の明かりが灯ると、夜の街の寂しさがいっそう際立つ。その光景は、映画『未来世紀ブラジル』と山姥の出てきそうな昔話の村をごちゃまぜにして、2で割ったという雰囲気。それでも住めば都とは良く言ったもので、誰にも気兼ねせず、夜中に大音量で音楽を聴き、ピアノを弾ける環境に満足している。喜んで遊びに来るのは海外の友人ばかりで、どこにいるのか分からなくなるのも面白い。

この街にはクリーニング店がたったの一軒。店の夫婦は昔からの住人で、クリーニングのほとんどが会社や飲食店のユニフォームのせいか、私のような個人が洗濯物を出しに行くと、当然のように根掘り葉掘りいろいろと聞かれ、また、聞かされる。私の出した洗濯物(演奏ステージで着るドレス)を広げながら、おかみさんは興味津々に尋ねてきた。

「あんた、どこのお店?この近く?」返答に一瞬とまどうと「ああ、自分のお店じゃなくておつとめね。ここら辺はさ、水商売が住むには一番良いとこなんだよ」。ごもっとも。「しかし、お店に出るって言うより、黒子だね。全然目立たないよ。もっとアピールしなきゃ。アピール!」。人民服を派手なエプロンにつけかえた江青女史といった貫禄のおかみさんは、短い茶髪に今どき見かけない見事なおばさんパーマ。口調は、寅さんのおばちゃん役の三崎千恵子を彷佛とさせる。

「お店でピアノを弾くんです」。そう答えると「あ、カラオケの伴奏さんだね。どおりで地味だと思った。お店じゃ、見てくれより気立てのがずっと大事なんだよ」と声をやわらげるおかみさん。私はにこやかに、しかし、神妙に黙りこみ、これ以上会話をふくらませまいと努力した。

「あたしがあんたくらいの頃にはね、自分のお店3軒持って回してたからね。こう見えても看板娘だったんだよ。あんたも頑張んな」伝票を渡しながら、おばさんはにっこりと笑った。その後もクリーニングを出すたび「店のほうはどうだい?」と聞かれるので「頑張ってます!」と答えている。

良く言えば世話好き、悪く言えばおせっかい。コンビニのマニュアルとは対極にある接客方法ではあるけれど、おかみさんのおかげで、火星のようなこの街にも、自分の居場所があるように感じられて、その温かさにふと気持ちが安らぐ



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