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鈴木家の日常①「その箸、誰のですか?」

「普通」の基準は一人一人違うから、「普通」という言葉をあまり使わないように生きてきた。これは父の教えだ。今思えば、その教えに都合よく言いくるめられていたのかも知れないが、おかげで私は人と違うことに違和感を覚えることなく、「ちょっと違う」人や行動、出来事に対して比較的柔軟だった。そんな私に、どうしても納得できない衝撃的な事が起こった話をしようと思う。

鈴木家へ嫁いで間もなくのこと。夫の家族全員と、夫の実家で食事をした時のことだった。それぞれがそれぞれの箸を使っている家族の中で唯一の他人である私には当然割りばしが出てくるだろうと思っていたら、きれいな赤い輪島塗りの箸が出てきた。わざわざ用意しておいてくれたのだと、正直感動した。可愛いい手毬の描かれたご飯茶碗、朱塗りのお椀、ドレも私のためにと用意してくれたものだと思ったら、感無量だった。
夫の実家の鈴木家は、会社を経営している。その会社を挟む形で、実家と私たちの新居は位置する。週に数回、夫の実家で食事をするために、私は夕方から実家へ出向き、皆の食事の支度をする役割を与えられた。食卓に食器を並べ、料理を並べ、席について夫と家族の帰りを待った。もちろん、あの輪島塗の箸と手毬模様のお茶碗と朱塗りの汁椀は私のものだ。
結婚から1年半が経過したころ、私は妊娠した。つわりが酷く切迫流産の危険もあり、安静のを余儀なくされたため、しばらくの間週数回の夕食の支度はお役御免となった。私の身体はどうあれ、お腹の赤ちゃんは順調に育つ。妊娠7カ月を過ぎた頃、夫のすぐ下の弟ユキオの結婚が決まった。当時ユキオがお付き合いしていたアキさんは、私より5歳年下で安定期に入るまで私はとても世話になった。特に安静を余儀なくされた療養期間は、ほぼ毎日家に来て、あれこれと世話を焼いてくれて、私は本当に感謝した。
ユキオとアキさんが正式に夫婦になって親族になってくれるのならば、こんなに心強いことはない。そんな風に考えたら嬉しかった。
ところが、ユキオの結婚が決まったという話以降、アキさんはうちへ来ない。そういえば、いつでも連絡が取れるからと、私は連絡先を聞いたことがない。少し気になったが、きっと結婚準備が忙しいのだろうと考えた。

妊娠8カ月の頃、ユキオが話があるというので実家へ行った。久しぶりの夫の実家だ。玄関を上がり廊下を歩く。突き当りのガラス扉を開ければダイニングキッチンがある。賑やかに笑う女性の声がした。アキさん?あんなに声高に笑う人だったのか?
「お邪魔します」と言いながら、ガラス扉を勢いよく開けた先に座っている人は一体誰だ?見たことのない小さな女性が甲高い声でケラケラと笑いながらビールを飲んでいる。その手には私の輪島塗の箸。よく見ると、手毬柄のお茶碗は義母の手中にある。まったく意味が解らない状況に呆然と立っていると、ユキオから声を掛けられた。
「ああ、姉ちゃん。この子、オレの奥さんになる人。ミドリだよ。お腹に赤ちゃんいるからさ、姉ちゃんよろしく頼むね」
ミドリさんは私を見ると、持っていたビールグラスを置き、目の前のビール瓶に手を伸ばして私の方へ差し出した。
「ケイコさんですよね、よろしくお願いします」
「ごめんなさい、アルコールは飲みませんので大丈夫です」
何がどうなっているのか、アキさんに申し訳ない気持ちが溢れ出し、私は俯いた。ミドリさんが小さな声で「ケイコさんってお酒飲めないんだ」とユキオに向かってクスクスと笑いながら言っているのが聞こえてきた。何となく小ばかにされているような、とても不快な錯覚に陥た私は、思わず強い口調で言ってしまった。
「飲めないんじゃなくて、飲まないんです!」
席に座ったものの、私の前に出された箸は、私のものではない箸だ。誰のものか判らない箸を使うくらいなら割り箸の方が良かった。結局、テーブルの料理に手を付けることなくその場をやり過ごした。

翌日、アキさんが私の家にやってきた。玄関を開けると、眼にいっぱい涙を溜め込んでいる。
「これからここでユキオ君と話し合うことになっているんです、大丈夫ですか?」
そんなことは寝耳に水だが、こんな顔をしたアキさんを見たら、知らないと突っぱねることなんてできない。彼女を家にあげ、ユキオが来るのを待った。10分待っても、20分待ってもユキオは来ない。
「ケイコさん、会ったんですよね、相手の人と」
私はこくりと頷いた。
「そんなに私じゃダメなんですかね、どこがダメだったんだろう」
アキさんは泣いている。本当は「デキちゃってなければあの子と結婚してないんじゃない?」と言ってあげたいが、そんな無責任なことを言ってはいけないと思った。今はただ、アキさんの思いを聞くことしかできない。泣いているアキさんの背中をゆっくりと摩った。

「いや、遅くなった、ミドリ泣いちゃってさ」
ユキオが無神経に家の中へ入ってきた。私はすかさず隣の部屋へと移動した。二人きりで大丈夫かと心配で、ドア越しに静かに聞き耳を立てた。
「ミドリって言うんだ」
アキさんの声だ。
「あ、いや、ごめん」
「なんで私じゃないのかな、私の何がダメなのかな」
「あのさ、俺たちって付き合ってたの?いや、そういうんじゃないと思っててさ。だってほら、俺好きって言ったことないじゃん」
「ユキオ君、好きじゃない人と3年もカラダの関係続けたってこと?」
「いや、このまま続けてもいいんだけどさ、デキちゃったからさ、デキちゃった方と結婚するしかないじゃん」
「私にも赤ちゃんできたって言ったらどうするの?」
「いや、それはないでしょ、アキとはちゃんとつけてたし。あ、そういう感じならこのまま続いてもいいんだけどさ、ミドリがヤキモチ焼きだから、バレるとめんどくさいんだよね」
私は息を殺して、静かにこのやり取りを聞いていた。一瞬無音になったあと、ピシャッという大きな乾いた音がして、アキさんが部屋のドアを開けた。真っ赤な顔をしたアキさんが、私の目の前に立った。
「ケイコさんごめんなさい、育児お手伝いする約束は守れなくなっちゃった」
それだけ言って出て行った。
左頬にくっきりと手跡の付いたユキオが頭を搔きながら私に向かって笑いかけたが、私は無言でその顔めがけてコップの水を掛けてしまった。

ユキオとミドリは住むところがないと言い、夫の実家に身を寄せたから、私はもう行かなくなった。
9カ月が過ぎ、臨月を迎え、私は里帰り出産をした。元気な男の子だ。産後ひと月で私は家に戻り、ひとり孤独に育児に追われた。時々アキさんを思い出すが、彼女が私のもとを訪れることはなかった。
産後4ヵ月が過ぎた昼、夫の実家へ呼ばれ、気乗りしないまま向かった。
「全員揃って食事をするから料理を」そう言われたが断った。そのついでに気になっていたことを義母に尋ねてみた。
「あの輪島塗の箸や手毬柄のお茶碗、朱塗りのお椀は誰のですか」
「誰のでもない、ここにあるどれも誰のものでもない、そんなことを決めた覚えもない」
「お宅が勝手に自分のものだと勘違いしたんでしょう。うちでは「誰の」なんて小さなことは決めないんだよ。何だっていいでしょう?家族なんだから」
私は呆気にとられが、気を取り直して尋ねた。
「私の実家では、自分のお箸やお茶碗、お椀、マグカップもどれが誰のかちゃんと決まっていました。誰かが使ったお箸を使うなんて、その神経が理解できません」
私と義母のやり取りに痺れを切らした義父が口を挟む。
「ミドリさんは平気だよ。お宅が神経質なんでしょう、そんな可笑しな常識を押し付けないでくれないか。誰が使ってたっていいじゃないか」
全然良くない、そんなことが平気なんて理解できない。少なくとも私は使えない。この中の誰かが昨日この箸使ったんだって思うだけで食欲はゼロになる。まさに今だって、ユキオは行儀悪く箸を口にくわえたまま両手で大皿を手前に寄せている。さっきからずっとユキオの口の中に箸がある。そんな箸やお茶碗を使いたくない。私は苛々を募らせながら、黙ってミドリの方をへ視線をやると、彼女は下をペロッと出して笑っている。その顔で私の苛々は最高潮に達した。
苛々が収まらないのは、義母の同様だった様子で、畳みかけるように怒鳴り散らしている。
「こっちも遠慮なく言わせてもらうけどね、お宅が片付けると残り物捨てるでしょ、あれはダメ。まとめておけば誰か食べられるんだから」
「誰かの食べかけですよ?鍋の中のものや取り箸を使った大皿のものはちゃんと寄せてます。でも誰かの食べかけは捨てるでしょ」
「だって家族じゃないの、ここで食べてるのは家族。家族の食べ残しなんだから汚いものじゃない。ちょっとアレンジを工夫すれば今日とは別の料理になるでしょう?味噌汁だってね、飲み残しは鍋に戻すの。また飲めるでしょう?そういうのを知恵って言うんだよ」
鈴木家の思考回路は、遥か斜め上をいっている。全く共感できなかった。


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