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カタカタと、彼女の右腕が鳴った

ここを通る人は、一度は彼女を見た事があるだろう。
地下鉄の改札の横の自動販売機のそばに、朝も夜も、彼女はいつも寝そべっている。
いろんな色の服を重ねて着こんでいたが、どういうわけか、色が混ざって彼女は灰色の塊に見えた。
ぽっかりと空っぽな瞳が見開かれている時も、改札に吸い込まれ、吐き出される群衆を、見ているようで見ていない。
数メートル離れていても、彼女から漂う匂いは鼻を刺激した。

改札を通る時、視界の片隅に、彼女が映った。
けれども、自動販売機や、ATMマシン、鏡のついた広告立てに同一化した彼女を、僕も、そして誰も気にもとめていなかった。

仕事帰りの金曜日、ガードレールにもたれて同僚を待っていた。
押しの強い同僚に押し切られた形で、いつの間にか飲みに行くはめになったのだ。誘っておいて同僚は遅れていた。

排気ガスや、店の換気扇から吐き出される油の匂いを含んだ夜風は冷たかった。
ガードレールもひんやりしている。
秋の空気の中に、すでに冬の気配がある。
見上げると、ビル群の光の向こうに月が見えた。
卵の黄身のような、見事なまんまるい満月。
こんなふうに月を見たのは何年ぶりだろう。

このまま同僚が来なければいいな、と思いながら、月を見上げていると、むうっと突然、圧の強い匂いに包まれた。

振り向くと、灰色の塊がそこにあった。地下鉄の、あの彼女がそこにいた。
ぼうぼうと白髪を夜風になびかせて、じっと僕を見ていた。立っている彼女を見るのは初めてだ。

彼女は、僕に並んでガードレールに腰かけると、口を開いた。灰色の仮面のようだったその顔に、突然生き生きと表情が宿った。

「あたしはね、ほら、そこの取り壊しているアパートに住んでいたんだよ」まるでさっきの話の続きだ、というような自然さで、彼女は話し始めた。

住み慣れたアパートを追い出され、彼女は住処を失ったのだという。彼女の故郷は遠い北国で、激しい恋の末に恋人と上京し、今に至るのだという。「あの人」との思い出が沢山あるから、今こんな暮らしをしていてもちっとも苦痛ではないのだ、と言う。

その彼は今どうしているのかと尋ねると、彼女は、にやっと笑ってから、右腕をぶらぶらさせた。カタカタ、と乾いた音がする。

「あたしのこの腕と一緒に、あの世に行っちまった。あの人は今もずっとあたしの腕と一緒にいるんだよ」

そう言うと、彼女は愛おしそうに、義手を撫でた。その瞳は優しく、確かに幸福そうに見えた。

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