自分の為に完璧を求めない
#家事分担の気つ ゙き
私は、結婚前から就職しており、もちろん夫は私がどんな仕事をしているのか重々理解している状況で結婚生活がスタートした。
当然、家事というものが発生するわけだが、基本的に家事は妻の私が主であるという意識がやはり高い。
そして私が思うに、多くの男性が家事に対して「手伝ってあげている」という感覚を持っており、多くの女性が「手伝わせている」という感覚を持っている傾向にあるように思う。
正直、このテーマにおいては多くの夫婦間で衝突するイメージがあるが、そうならないために、私が考える女性が持っていると少し気楽になるマインドについてご紹介したい。
気づいたら労いの言葉を
誰しも、褒められて嫌な思いをすることはない。
余程嫌みでもない限り(笑)
そんなわけで、家事に該当することなど、「やってくれたんだな」と気づいたときには、とにかく「ありがとう」「助かったわ」などの声かけを極力するようにしている。
もちろん、毎度毎度言うわけではない。
それこそ、毎度言い過ぎると「やってやった」感を相手が持ってしまうので、適度が重要である。
ここでポイントなのは、「自分の求める完璧ではなくても感謝する」ことにある。
このように書くと、だから男性は「手伝ってあげてる感覚」から抜け出せないんだ、と思われるかもしれないが待って欲しい。
夫だって育つまで時間がかかるのだ。
今の私たち親世代は、「女の子は家事ができなくては」と大なり小なり考えている親の元で育った、昭和~平成前半に生まれた人が多数を占めていると思う。
そうすると、「家事は女性がするもの」という意識を持っている率が高いように感じる。
さらに言うと、現役親世代(概ね20代後半から50代前半くらい)の両親に「父親が家事をしている姿」を見てきた人は少ないはずである。
つまり、自然と男性は「家事をしない父親」が将来の自分像になっているし、女性は「家事を一手に引き受けている母親」が自分の将来の自分像になっているといっても過言では無い。
そんな中、突然社会情勢が変わり、男女平等や男性の育児参加と叫ばれても、前例を見てきていない手探りの中で「やれ、やれ」と言われる男性もいささか酷なようにも感じられる。
きっと今の子ども達の方が、お父さんと接する時間が昔よりも多く、また家事育児に参加している父親像をたくさん見ているので、将来自分も同じように父親がやっている家事をするものだとすり込まれている可能性があり、自然と家事が今よりもできるように思う。
また、女性にとっても厳しい状況である。
現役親世代の母親の多くは、まだ専業主婦が多かった。
家事を一手に引き受けていた母親像が消えないまま、社会進出は男性と同じく平等を叫ばれ、両立は苦しいけれど見てきたその理想から外れることが苦しくもなる。
このような男女が一緒に生活を始めるわけだから、自然と「男性より女性が家事をする」状態ができあがってしまう。
どちらも、そのスタイルの両親しか知らない=前例がないから、知っていることだけつなぎ合わせて生活を維持しようとするからだ。
とはいえ、優しい男性が多いのも事実。
なんとか家事に参加しなくてはと頑張るものの、「ちゃんとできていない」「こんなことなら頼まなきゃ良かった」「もうやらなくていいよ」などと、冷たい言葉を妻から浴びる結果もある。
……なんて言葉を、言ったことがある女性は挙手だ(笑)
かくいう私も「これ、シワが伸びてないけど……」「このお皿洗えてないけど……」などと口出ししてしまった前例がある。
今振り返ると心から謝罪案件だ。
生活を始める最初の段階で、一緒によーいドン! のスタートを切れたら、家事スキルの違いが大きく起こらないまま一緒に成長できただろう。
しかし、「私が頑張って家事をやらなくちゃ」という気持ちで女性がスタートを切ってしまう傾向もあるように思う。
そうすると、どうしても女性の方が一歩先にスキル面でリードしてしまうかもしれない。
加えて、個々人の性格によるものも大きいが「だいたいこれでいいだろう」という考えを、男性の方が持っている傾向にある。
これも考え方の問題なので変えようがない。
変わるべきは、こちらのマインドの持ち方である。
なぜなら、その方が上手くいく可能性が高いからだ。
つまり女性は「だいたいこれでいいだろう」という感覚で挑戦してくれた男性を褒め、感謝するのである。
褒めていくと、何度も繰り返しやってくれるようになる。
何度も挑戦すれば、当然失敗も減るし、丁寧にやってくれるようになる。
そうすると、自分の仕上がりと妻の仕上がりの違いに気がつくかもしれない。
さらに継続してくれれば「俺の方ができる」と自信がついて、自ら志願してやってくれるようになる。……はずである。
決して馬鹿にしているのではない。
双方が心地よく過ごすための秘訣である。
ただ、この道のりが長い。
こちらからすると、恐ろしくゴールが遠いのだ。
なかなかたどり着かないゴールに、「もういい、私がやるから」と言ってしまったが最後、あなたは負けたことになる。
大事なことは、家事を進んでやってくれる夫に育てて、自分の自由時間を得ることだ。
そのために重要なことは、完璧を求めずに感謝し続けることにある。
やらない家事を宣言する
3人目が生まれて復帰した頃、私は限界を感じて宣言したことがある。
「今日から私、洗い物しません」
育児休暇あるあるだと思うが、これまでフルタイムで働いてきた女性が、育児休暇中初めて専業主婦になる。
これまで家のことを分担してきた夫婦も、多くの方がこの育児休暇の罠により均衡が崩れるのではないだろうか。
例によって私も、その均衡が崩れて苦戦した一人である。
夫婦共働きの生活リズムができた最初の頃は、トイレ掃除や洗い物、洗濯物などもそれぞれタイミングが合えばやってくれた。
しかし、育児休暇により家での生活が続くと、家事分担が崩れてどうしても全ての家事をやってしまう。
そして慣れとは恐ろしいもので、1年も経つ頃にはほとんどの家事をやってもらえなくなっている。
我が家だけなのかと思っていたが、他のおうちでもよく似た現象が起こっているようなので、どうやら起きがちな事象のようだ。
察するに、育児休暇に入る頃合いというのは男性としても働き時なタイミングであり、家のことを気にせず全力で働けるとなると家事のことなど忘れてしまうのだと思う。
1年もそんな状況が続けば、当然習慣化された家事も忘れられてしまう。
そしていざ職場に復帰したとしても、男性の認識はすぐには変わらないし、追いつかない。
こちらも、家事のほとんどを担う生活を続けてきたものだから、任されたままの状況に不満を持ちつつもこなそうとしてしまう。
そうすると、気持ち的にも身体的にも疲労が高まっていって、爆発した頃には大きな喧嘩になっている。
けれどここで、男性を責めるのは少しだけ待って欲しい。
別に夫は変わったわけではないのだ。
家事を分担してやっていた過去を忘れただけ。
悪気は全くない。
その上、仕事を頑張っているのになぜ……とさえ思っている可能性もある。
大前提、一緒に家事をしながら一緒に子育てをする両親の姿を見ていない。
前例がないのだから、気がつかないだけなのだ。
俺は俺で頑張っていると心底思っている。
そんなわけで、復帰早々、これ以上一人では回せないと思った私が宣言したのが「私、今日から洗い物しません」宣言だった。
正直、2人目まではどうにかなったことが、子どもが3人になって回らなくなったことがたくさん増えた。
これ以上無理だと思ったので、洗い物を手放す宣言をしたところ夫が了承してくれた。
もちろん、多少不満に感じる仕上がりであったり、完璧に洗い物をしてくれたわけではなかった。
それでも不満を言わず、けれど手を出すこともせずに全てをお任せするスタンスを貫いたことで、フルタイムで働いている期間中は一切の洗い物を担ってくれていた。
また、3人目の育休復帰から数年後のこと。
定時帰宅ができない部署に私がついた際、本当に家事が辛くて助けて欲しいと伝えた。
そのとき夫から「え、辛かったん? 何がしんどいの?」と言われた。
衝撃過ぎて言葉を失った記憶は今も忘れない。
というのも、毎日22時を過ぎて帰宅した後、洗濯物を片付け、お風呂に入り、翌日の晩ご飯を夜中に準備して翌朝誰よりも先に出勤する生活を送っていた。
夫が、晩ご飯は作りたくないと言いはったからだ。
洗濯物についても、たたんだり片付けたりすることは夫が一切したくない領域だったため、してもらえたためしがない。
そんなわけで、洗濯物を片付けられる状態にすること、晩ご飯を温めれば食べられる状態にしておくことは私専門の家事から外れることはなかった。
しかし早く帰られる日が全くない状態だったため、毎日ヘトヘトになっていた。
私が一体何のために早く眠れず、疲れていても夜更かししているのか。
考えてくれれば分かるだろうと思っていたが、夫は全くもって気づいていなかったのだ。
「毎日の晩ご飯を作ることが本当に辛いです」
そう伝えたところ、とてもビックリされた。
けれど、その話をしたことをきっかけに、週に1度シチュー類なら作れると思うと言って実行してくれるようになり、さらに週に1度、お弁当等を含む外食を取り入れるようにしてくれた。
おかげで私が晩ご飯を作る日が平日2~3日に減り、負担がグッと抑えられるようになった。
また、洗濯物を畳むことを諦めた。
本当に一室が洗濯物に占拠されて酷い状態になったが、とにかく人ごとにカゴに積み上げるだけにして、分類だけするようにしたのだ。
全ての家事を肩代わりしてくれる必要はなくて、代替案でもいいのでどうにか回せる策を取る。
それだけでもいいのだけれど、一人だけでは解決できないときもある。
今振り返ってみても、「どう考えたって私がなぜしんどかったかなんて分かるでしょ?」と思うが、本人が分からないというのだから、分からないが正解なのだろうと思う。
つまり、夫は家事をやってくれないと思っている人も多いかもしれないが、男性自身は家事をやっていないつもりは一切無く、こちらが困っているとも、助けて欲しいことも気づいていないのが正解なのではないかと考えている。
だから、もう少し家事の分担を変えたいなと思うときは、助けて欲しいことを伝え、とにかくお願いしてみることにある。
どうして私がお願いする側にならなきゃならんのだとか、男性だって家事をやるのが当たり前だろうとか、喉まで出かかる言葉がたくさんあると思う。
しかし、喉まで出かかっている言葉に一切気づいていない相手にその気持ちを伝えても、関係が悪化するのみであまり解決に至らない可能性が高いのでオススメしない。
自分の受け止め方、考え方を変えること。
この方が、望む未来に近づきやすい。
とはいえ、かくいう私も腹正しい思いを抱えることはよくある。
夫は私にしょっちゅう言っている。
「俺は、よその家のパパよりも絶対に家事をやってるし、育児もやっている良いパパなんだ」と。
どうぞ勝手にそう思ってください……と言いそうになりながらも、「そ、そうですか」と少々顔を引きつらせる私である。
認識の違いとは恐ろしいなといつも思う。
完璧よりも楽に続けられる方法を
真面目な日本人の気質がそうさせてしまうのか、私たちは少し頑張り過ぎではないかと感じるときがある。
私は、頑張り過ぎが幸せを感じにくくする原因の1つと考えていて、自分たちを苦しめているように考えている。
なんて言っている私こそが、最も頑張りすぎて勝手に不幸になっていた一人かもしれない。
先日モノを整理しているときに、過去に書いてもらった色紙などがいくつか出てきた。
それらに「頑張りすぎるな」「気負いすぎないように」「ゆっくり休んで」などのメッセージがたくさん書き込まれていた。
中学も、高校も、専門学校でも。
卒業の色紙に、そこまで人から頑張り過ぎと書かれることってあるのだろうかと笑ってしまった。
そう言えば、退職した時にも上司面々に何度も言われた。
「どこの職場に行っても頑張りすぎないように」と。
つまり私は、幼少期より大人になっても尚一貫して頑張り過ぎと周囲から思われていたようである。
かくいう私自身は特段頑張っていたつもりはなかったが、昨年初めて扶養内で働くと決めたときに「これまで頑張りすぎていたんだ」とようやく自覚した。
自覚する余地もないくらい全力投球を繰り返してきたので、全く気負わなくてなったら折れてしまうかもしれないと思ったが、自分の人生至上一番幸せを感じて謳歌している真っ最中である。
話は逸れたが、とにかく「頑張り過ぎ」が自然と自分を苦しめているように原因ではないだろうか。
一人目を出産した後、先輩から「多少ほこりっぽい家でも死にはしないから」と教わった。
恐らくその感覚で、いろんなことをもっと緩く考える必要があったのではと今は思っている。
前章の話から例を挙げるなら「ご飯を作るのが大変なら外食も選択肢」に入れるだとか、自分でやらない選択肢をもっと広げることなどもヒントがあると感じる。
また、人は得意分野であれば進んでやるけれど、不得意分野だとなかなか重い腰が上がらない傾向にある。
先日、ご縁があって子どもの家事についてのアンケートを受けた。
話をしている内に、自分の子どもの頃を振り返ってみると「自分のしたくない家事はあまりやっていなかった」ということに気がついた。
さらに、自分が子どもの頃やっていた家事量程度しか自身の子どもたちにさせていない傾向にあることも分かった。
つまり、人は自分の体験した範囲で知っていることややっていることと同程度のことをさせることが多いのではないかと思った。
上記を合わせると「自分の知っている範囲で家事分担をしようとする」「自分の好きな家事は進んでできるけれど、したくない家事はやらない」傾向が高いのではないかと考えた。
自分の知っている範囲で家事分担をしようとする……について、とてもあてはまっていると感じる。
冒頭書いたように、人は自分が見てきたものを前例にするので、家事をするお父さんを見てきていない私たちはどうしても「夫の方が家事分担が多い図」が浮かばない。
さらに「自分の好きなことなら進んでやるけれど、そうじゃないことはやろうともしない」はピッタリあてはまった。
誰に……もちろん、夫にである。
総合すると、本人がやりたいと感じる家事を全面的にお願いして、それ以外をこちらで回収することで上手くいくのではないかと考えた。
その考えの基少しずつ家事を明け渡していくと、近頃に至っては「○○やってくれてありがとう」と逆に労いの言葉をくれるようになった。
完全に「○○の家事は俺の担当」になった証だと感じて感動したものである。
ちなみに未だに多くのタイミングで「▲▲やっておいたから」と言われることはあり、やはり家事の多くがこちら側の仕事と思っているんだなと感じることは多い。
「やってくれて、ありがとう!」を言わなければならない空気を出されることも、しばしばである。
しかし、もうそれでいいと思うことが頑張りすぎる自分から解放される一手ではないかと感じる。
1つでも多くの家事を手放すことができ、対応してくれるのであれば万々歳である。
家事の時間を1つでも減らすことができれば、自分の余白が生まれる。先に折れることも重要だ。
キリキリ・イライラしていても、休息を取れるようになればそこまで腹立たしくもなくなる。
余裕ができた分、他のことに時間が使えるようになると、少しずつ家事の楽しさも見えてくる。
私はこれまでほとんどの家事が嫌いだったが、最近は面白いと感じることも増えてきた。
毎日丁寧に綺麗にしていると、このキレイを維持したいと思うようになり、細かに拭き掃除をすることが楽しめるようになった。
不思議なことに、家族みんなが少しばかり掃除もするようになってくれた。
こちらが変われば周りも変わる。
そのことに気がつく。
余裕がないと、相手を変えようと考えてしまうがそうはしない方が良い。
自分が変わることで相手が変わることを待った方が、丸く収まる。
家事も同じで、やらせようだとか、やってもらうという感覚から少し離れることで見えるものがあるように思う。
自分が助けられたことには感謝を。
完璧ではなくても、死ぬわけじゃないならOK。
自分も相手も許していきましょう。
その気持ちが、家事を円満に終わらせられる秘訣かもしれません。
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