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仏教学を学び始めて3年になりますが、まだまだ仏には近づけません。

大学で仏教学の授業を受けています。
仏教学に触れてから3年が経とうとしていますが、仏教をちゃんと理解するのは難しいと感じます。

完全に理解したとは言い切れないものの、なんとなく解った気がする浄土真宗(親鸞の教え)について書いてみます。

親鸞の教えである他力本願、悪人正機、往生浄土の3つは「浄土真宗の三本柱」と言われています。              

1.他力本願について

 まず、「他力」とは、阿弥陀仏の力です。
(初めてこれを聞いたとき、頭の中は、?…??という感じで全く何を言っているのかわかりませんでした。)

一般的によく言われる「他力」の「他」とは、他者のことです。
そして「他力本願」は、自分は頑張らないで他人の力にまかせる、というようなあまりよくないイメージで使われることが多いです。

しかし仏教における「他力」の「他」とは阿弥陀仏のことで、「他力」とは「阿弥陀仏の救いの力」です。そして、「他力本願」とは一言で言うと「阿弥陀仏のおかげ」です。(阿弥陀仏についての詳細は割愛させていただきます。)

「阿弥陀仏のおかげ」というのは、すべて阿弥陀仏の力によるものだ、ということです。自分が頑張った努力が報われて極楽浄土に行けるのではなく、阿弥陀仏によって修行をさせていただいて、阿弥陀仏の力によって浄土に導かれる、と捉えるのが他力本願という考えです。

自分が頑張った、という場合には「自力」という言葉が使われます。「自力」はいいことだ、と思われがちです。しかし、「自力」という考えは、頑張れない環境にいる人(仏教的には、修行のための資質を持たない人)を見捨てることになってしまいます。また、自力には限界があり、自力に溺れると、ありのままの自分を見つめることができません。親鸞が大切にしているのは他力です。

今の社会で考えてみると、「自力」を「自助」と重ねることができます。コロナ禍で「自助・共助・公助」のうち、自助が強調されることが増えてきました。しかし、これらの三つがバランスよく保たれることではじめてそれぞれの「助」が機能します。よって、「自助」だけが強調されることは、頑張らないのが悪いという考えになり、弱者を見捨てることは当然であるというような自己責任論を導いてしまいます。

親鸞は、頑張れない人も頑張っている人もどんな人も、たまたまその環境にいるだけで、努力のような自分の力は関係ないということを言っています。
良くも悪くも自分が別の状況にいる人たちの立場になっている可能性が、過去にも未来にも十分にある。ということです。

よって、親鸞は「他力」を説きました。

2.悪人正機(あくにんしょうき)について

 仏教でいう「悪人」とは、悪い人という意味ではありません。「悪人」とは凡夫のことであり、凡夫とは私たちのことです。

「悪人」という、きつく感じる言葉が用いられているわけは、凡夫である私たちは修行をする(浄土真宗では念仏を唱えること)資質を持ち合わせていないからです。

念仏を唱える心構えがあれば凡夫ではない、というわけではなく、「自分は念仏を唱えられる。」と思ってしまう時点で凡夫なのです。

なぜなら、「自分は念仏を唱えられる。修行に耐えらえる。」という思いには、「自力」の考えが入っていて自分は無力で愚かな者であるという自覚をしていないからです。親鸞の教えでは、「自力」の考えを持つことは厳禁なのです。「自力」の考えは煩悩です。

つまり、私たちは煩悩にまみれていて、その煩悩が自分を苦しめているのにもかかわらず、苦から放たれた煩悩のない世界(浄土)に行くための力を持っていないということです。

そして「正機」とは「阿弥陀仏の救いの対象」のことです。つまり、「悪人正機」とは、「凡夫である私たちが救いの対象である」ということになります。親鸞はどんな人も見捨てることはしません。

1.他力本願と2.悪人正機の2つを合わせて考えると、修行の資質の有無にかかわらず、どんな人も阿弥陀仏の慈悲を受けて、煩悩の世界から解き放たれるということです。つまり、どんな人も仏教の究極の目的(煩悩のない浄土にうまれること)を達成することができるということになります。

3.往生浄土について

 これまでの他力本願と悪人正機とは違い、「往生浄土」は亡くなってからのことです。

浄土とは、煩悩のない悟りの世界ことで、煩悩のない世界は仏教の教えが目指す究極の目標です。また、浄土は強い浄化作用を持つため、浄土に生まれるとただちにすべての煩悩が消されると言われています。

よって、そんな世界に往き生まれることが「往生浄土」であり、仏教の目標を達成することになります。そして浄土に行くと、私たちが今いるこの世で煩悩に悩む凡夫たちを悟りに導く側になっていきます。

一般的に「往生」というと、立ち止まって動けないようなネガティブなイメージがありますが、仏教の「往生」はこの上なく幸せな状態です。

4.やっぱり仏教は難しいけれど、なんとか付き合っていきたい

 世界三大宗教一つのである仏教は、キリスト教やイスラム教のように、唯一神がいるのではなく、信仰するすべての人がそれぞれ仏になることを目指し、鏡である仏教の教えに自分を照らし、自分を見つめなおしていくものです。

仏教の教えは人間の姿をとても正確にとらえたものです。教えに触れるたび、自分のことをすべて見透かされていると感じます。

しかし、仏教の教えは人間という生き物を究極まで突き詰めたものなので、とても原理的なことも多く、一度にすべてを理解するのは難しいです。何言ってるかわからん、と理解することをあきらめ仏教からも離れたくなる時もあります。でも阿弥陀仏はそんなこともお見通しなのだと思います。笑

なので、仏教から逃げるのは悔しいのでゆっくりじっくり向き合って生きたいです。

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