桃の実、投げらせ給へ!
古事記に出てくるイザナギとイザナミの黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)で繰り広げられた壮絶な追いかけっこのシーン。
簡単にお話しすると、イザナミ(女神)はヒノカグツチ(火之迦具土神/燃えながら産まれてきた)を産むときにホト(陰部)を焼かれ死んでしまう。イザナギ(男神)は悲しみのあまり、黄泉の国に下ってしまった妻イザナミを追いかけていく。黄泉の国ではやっとイザナミに会えると思ったのに、ちょっと待てと言われ、散々待たされた挙句いつまでも姿を現さないイザナミに痺れを切らしたイザナギは無理矢理に扉をこじ開けてしまう。いざ、あの美しい最愛の妻に会えると喜びいっぱいだったイザナギが見たのはウジがわいた見るもおぞましい、そしてその内側からは鬼がはみ出ている恐ろしいイザナミの変わり果てた姿だった。
イザナミは愛するイザナギにあれほど見るなと言ったのに、お前が私に恥を掻かせたと激怒し、恐ろしさで逃げるイザナギを今度は愛ではなく憎しみで追いかける。黄泉の国から地上への道、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)を駆け上るイザナギには助けが入る。
桃の実が3個。
誰かが叫ぶ。「桃の実、投げらせ給へ!」目に入った桃の実を追いかけてくるイザナミに投げ、桃の実を食べている隙にやっとの思いで中津世(この世)に戻ってきたイザナギ。恨みのおさまらないイザナミはイザナギが産んだ子をことごとく殺すという。怒ったイザナギはお前が1000を殺すなら俺は1500を産むと言い、この時を境に永遠の分断が始まった。
イザナミのかなしみは女性として生まれた全てのものが持つこの世で生きるかなしみだと思う。ただ愛されたかった。ただ愛で産んだのに命を続けることができない。愛するこどもとの永遠の別れ、愛する者の裏切り。許せない。私には選択の余地は無かった。そしてイザナギのかなしみも立場は違えど同様だと思う。ただ愛して会いたかっただけなのに。ただ自分がどんなにお前を愛しているか伝えたかっただけなのに。そしてそんなに変わり果てていると先に知っていたら、あんなに驚き恐怖する必要も無かったのに。本当は愛していたのに。無念、後悔、恐怖、ただただ逃げたい。
それとも、女性性と男性性、本質、魂と自我と受け取ってもいいかもしれない。
さて、桃の実はというと、美味しさのあまりイザナミが追いかけることを忘れてしまうほどだったらしい。この世を救った桃の実。
神話にはたくさんのメッセージが秘められている。そして世界各地で伝承されてきた神話には何かしら共通のメッセージが受け取れることも多い。
わたしはその受け取ったメッセージから、今こそ生きている私たちが、その神話を書き換える時ではないかと思う。
イザナミが食べた桃の実。美味しくて甘い。
もしも逃げたイザナギがふと立ち止まり振り返って、美味しそうに桃の実を食べるイザナミを見て「ぼくにも桃の実ちょうだい。」とか言ったらどうだろう?イザナミは追いかけていたことを忘れて、きっと「はい。あんたの分よ。」とか言って二人仲良く美味しさを分かち合ったのじゃないだろうか。ちょっと馬鹿っぽくて可愛らしいふたり。過去の恨みややるせなさ、かなしみ怒り、そういったものを全部気前良く投げ捨てて、もう一度分かち合う。
きっと思い出すだろうと思う。最初は愛から始まったことを。
神話を書き換えるのは地上に住む者の命懸けのしごと。
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