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結局のところ、自殺って自己責任なのかな?
お久しぶりです。こんばんは。
新年度を迎えて、業務内容がガラリと変わり、せわしなく生きています。
自分の話とか、いろいろ伝えたいこともあるんですけど、
私が私として世に出ていくことが昔に比べて億劫になりすぎちゃって。笑
何か良いタイミングがあれば、話そうと思います。
ただ、とりあえず、私は安寧を求めて、
ゆるやかに、のびやかに、社会に出て、生きてます。
安心してください。定期的に風邪は引きますが、元気です。
最近少しずつ、文章を読んだり、書いたりする力も戻ってきて、
物書き欲もわいてきました。
ですので、今回は、ずっと書いてみたかった、
自殺と憲法の話 第一弾にしてみようと思います。
【プロローグ】ドラマでしか知らない自殺
私、高校生のころから、不登校や引きこもり、いじめというテーマから移行して、自殺というものをテーマに活動してきました。
そのため、周りには自殺問題や生きづらさ問題に明るい人間もいて、そういう関連のニュースもたくさん流れ込んできていて。
十分に自殺問題が議論されている、社会の認知もちゃんとある!
と錯覚できる環境にいました。
あくまでも、錯覚、です。
私が社会人になって、この自殺というテーマから離れてみた社会は、
未だに自殺というものに対する理解が、ドラマ程度、という感じでした。
最近、自殺のニュースは一気に見なくなりました。ショッキングなニュースを見ると「電話窓口に相談してください!」という案内だけが促される異様な画面になりました。
(※ウェルテル効果というものがあるので、後追い自殺を防ぐ目的としてニュースにしないのは妥当です。)
ドラマの冒頭とか、ドラマの問題提起として、自殺のシーンを扱ったりしますが、おそらく社会一般的な自殺のイメージは、ドラマそのものだと思います。
苦しみの末、自殺に至った。
では「その苦しみ」とは誰のせい?
では自殺って誰の「責任」?
そこまで考えるほど、自殺というものに対しての共感値は高くないと思います。
となると割と「自殺って自己責任じゃね?」という意見が出てくるのも、
おかしい話でもないんじゃないでしょうか。
私自身、自殺と憲法(特に人権)をテーマに卒業研究をしようと思っていた時、
哲学でいうところの「半出生主義」と憲法13条の幸福追求権、その中でも新しめの定義である自己決定権を絡めようと考えていました。
「自分を死を選択するんだから、自己決定でしょ」と思っていたんです。
でも論文や本から、そもそもの憲法の考え方を学ぶと、
「自殺を自己責任で片付けちゃいけない!」と気づくことになります。
それは単に綺麗事ではなく、
「自殺を許しちゃいけない!」的な勝手な押し付けでもなく。
まぁ、ここでの終着点としては、「自殺は自己責任」という考えに対して
否定的な立場であるということが伝わればいいと思ってます。
「自殺」という事象の見方
まず、自殺対策基本法を基に国が進める自殺対策の指針として示される「自殺総合対策大綱」というものがありますが、
そのサブタイトルは「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して~」となっています。
この文言は、日本において「自殺」が問題として国に上がり、自殺対策基本法ができることになったタイミングで、
改めて、自殺は「社会で解決しなけれがならないもの」という認識を持つために記されたメッセージであると思っています。
(ここは自殺対策基本法が制定される歴史にまで遡るので割愛…)
ちなみに自殺総合対策大綱の「基本理念」には、こう書かれています。
自殺は、その多くが追い込まれた末の死であることや、自殺対策の本質が生きることの支援にあることを改めて確認し、「いのち支える自殺対策」という理念を前面に打ち出して、「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現」を目指す。
国の自殺対策を見る時に「追い込まれた末の死」「誰も自殺に追い込まれることのない社会」というメッセージが散りばめられていることがお分かりになるかと思います。
重要なポイントとしては、「社会によって」という主語が隠れているということです。
なぜここまで、「自殺は追い込まれた末の死」であることを国の自殺対策で発信しているかというと、
これまで自殺は個人的な問題で、社会として関与するべきではないという考えではあったものの、自殺のプロセスを追った際、そこにはうつ病をはじめとする精神疾患に罹患する前に、経済や社会情勢による背景から生まれた解雇、過労等の労働問題、多重債務、生活保護等の生活問題など複合的に重なっていたことが分かったことで、改めて社会の責任であることを認識できたからだと、大綱からも基本法からも読み解けます。
自殺は、健康問題、経済・生活問題、人間関係の問題のほか、地域・職場のあり方の変化など様々な要因とその人の性格傾向、家族の状況、死生観などが複雑に関係しており、
上記に書いたような要因は、結構大人っぽい理由ですが、子ども若者世代の自殺理由であっても、家庭環境の問題や、学校での問題などの社会的要因での自殺です。
だからこそ、自殺を社会によって追い込まれた末の死と見て捉えることが、自殺対策であったり、自殺に関わる法や人権を考える際に重要なことになってきます。
人権は「自殺」をどう見るの
ここまで「自殺は自己責任じゃないよ!」「自殺は社会によって追い込まれた末の死だよ!」自殺対策基本法も大綱もそう書いていると力説してきましたが、
基本法であっても、大綱であっても、そのルーツになるのは、
憲法であり、人権になってきます。最高法規ですから。
それでは、そのルーツである憲法、もとい人権は自殺をどう考えているのかを考えてみたいと思います。
冒頭で、憲法13条の幸福追求権と自己決定権を出しましたが、それよりももっと大前提の話からしてみましょう。
憲法学者の佐藤幸治先生は、こんなことを書いています。
“基本的人権ないし、憲法13条幸福追求権のうちの人格的自律権(自己決定権)では、大前提に生きることは尊いことである”という考えがあるから、「死ぬ権利」とか「自殺する権利」とかを安易に語るべきではない
最初は、生きることは尊いこととか、生きてて幸せとかしか思ってない奴の意見でしかないだろ!と半ギレだったんですが、
他の文献も読んで、色々な解釈の仕方を知って、半ギレしなくても良かったことに気付きました。笑
自己決定権の中には、生命を享受する権利(生命を享受する自由)、つまり生命を剥奪されない権利がある*¹とあり、
逆に佐藤先生の書いているように、その生命を享受する権利には、自殺する権利は含まれていないんですね。
¹竹中勲 [2010]: 『憲法上の自己決定権』(成文堂)139ページ
ここでもう一回、憲法の前提のお話をすると、
憲法は国民のために、国民の権利や自由を、国家権力から奪われないように守るためのものなんです。
日弁連のサイトにも書いてありますね。
(思ったより文体が易しくて勉強になります)
憲法は、国民の権利・自由を守るために、国がやってはいけないこと(またはやるべきこと)について国民が定めた決まり(最高法規)です。
この前提のお話を踏まえると、憲法の各条文は、国民各個人に対して制約を設けるものではなく、国家に対して、国民の権利や自由に対してアプローチするものだといえます。
ではもう一度、自己決定権内の生命を享受する権利、生命を剥奪されない権利という部分に立ち戻り、法学者の棟居快行先生の意見を見てみましょう。
人の生命・健康は『国家からの自由』と同質の価値ではなく、むしろそれに当然に先行・優先する価値として、自由権を内在的にではなく、いわば他律的に制約する
これ何を言っているかというと、人の生命や健康は何よりも重要で優先しなくてはいけないから、自由権を外部から制約してでも守るべきってことなんです。
そう考えた時、国が積極的に個人の生きる権利を保障するために動いていく必要性があることを憲法が定めているとすら感じられます。
では憲法13条は、「自殺することを許していない」のでしょうか?
いいえ。
自殺を選択してしまった国民の「生命を剥奪されない権利」「生きる権利」を国が保障できなかったということだと捉えます。
だから、国は国民一人ひとりが、自殺に追い込まれない社会の仕組みづくりをしなくてはならないんです。
私ね、この解釈にいきついたときに、
ちょっとだけ気持ちが楽になったんです。
今まで死にたいって思ってきたことも、本気で死に方を考えてきたことも、あったけど、
それ以上に、この社会で生きていく苦しみや、社会で生きてきて与えられた痛みや苦しみを自分自身の責任にして、飲み込むことしか知らなかったから。
あぁ、そっか。
この社会は人間が生きていくためにルール付けされ、解釈をされ、
国民の自由や権利を守るために憲法があるんだって。
つまりね、自殺は自己責任、個人の責任じゃないです。
これは、憲法の解釈をもってして、いえる事実です。
まとめ
本当は、自殺という事象を見るうえでは、憲法13条だけではなく、憲法25条の生存権も語りたいんですけど、
一旦、自殺は自己責任じゃないという結末まで書けたかな?と思いますので、ここで終わります。
最近思うんですが、死というものが世の中でコンテンツになってきていて、
死を我がごととして考える機会ってないな~とか、
生きていく上での大きな困難であったり、大きな苦しみであったりに対して、どう考えるか、どう対処するか、何を信じて食らいついていくのかってあんまり考えられないな~とか。思うんです。
いざって時、本当に何も考えられないんですが、
やっぱり知識は、学びは、生きていく上での武器になったり、お守りになったりするものだなと思います。
ふと思い返して、こんなに苦しんでいる、こんなに社会で生きていることに苦痛を感じているけど、わざわざ自分で消化しようとしなくてもいいんだ。自分で解決しようとせず、頼ってもいいんだ。と思えたらいいなって。
今、世の中では多様性だなんやら言ってますが、
まだまだ多数派・声の大きい人が生きやすい世の中です。
多数派・声の大きい人が想像する「当たり前」がスタンダードになるように社会が回っている世の中です。
そして法も万全ではないです。過ちはおかすし、苦しい人を救うためのルールが整っているわけでもありません。
でも、憲法や人権は、その時代に合わせた解釈によって、誰かを救うこともできるものだなと思います。
それは誰かの価値観や言葉や想いも同様ですね。
私は微力ながら、小さな声でも、端っこでも、言葉にして、
誰かの苦しみや痛みをくみ上げ、支えられるお守りみたいなことを
考えて続けていけたらなと思います。
では。
※今度は、なんでこの条文が組み込まれたか~とか、なんでこういう解釈なのか~とか、色々書いてみたいですね~!
最後まで読んでくださって、本当にうれしいです……♡もしよろしければサポートして頂けると、もっとうれしいです💕