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自分の生きづらさも、君の生きづらさも。#私なりの生きづらさ論

最近、色々なことを考える。

「昔ほど『幸せに生きなくちゃ!』とも『死にたい』とも思わなくなってきたな。」
とか
「結局のところ、生きづらさとは自分と社会の狭間だ」
とか
「私はもう生きづらさ当事者だとは言えないな」
とか。

私の生きづらさは何たるのもなのか、ぶっちゃけた話、分からなかった。今でも分からない。

ヒカリテラスのまいけるが言ってた例に当てはめると、形のない生卵を、それっぽく料理して、スクランブルエッグなり目玉焼きにしたような感じ。

不登校や引きこもり。そんなことを話していたけど、表面的なカテゴライズに苦しんできた訳ではなかった。生きづらさの引き金は表面的なカテゴライズだったかもしれないけど。

不登校だったから「ここが生きづらい」訳では無いと察していたから、
「言っては見てるけどなんか違う」を繰り返してきた。

今は、私の生きづらさを「未来を生きることへの絶望と恐怖」と置き、それは誰にでも感じうる概念的な生きづらさだと考えている。

この表現は概ねしっくり。でもいつか違くなるかもしれない。

そんな風に日々自分の生きづらさと社会の生きづらさをゆらゆらと観測し、考えて、言葉にしたり、しなかったりしている。

これがヒカリテラスという場での福井千遥なんだと思う。

常々言うが、私は支援者でも無ければ、誰かに手を差し伸べてるつもりも無い。

せめて言うなら、隣にいるだけ、そこにいるだけ、なんとも頼りない存在なのである。

生きづらさに「そうだね」ということ。

私はその人の持つ生きづらさに「そうだね」としか言わない。

社会に様々な生きづらさがあり、私はその全てを体験はしていない。だから出来事には共感できない。

でも、奥底のつらい気持ち、生きづらさは共感ができる。そして、どんな気持ちか分からない怖さも理解して貰えないと怯える気持ちも。

だから「そうだね」と言う。

あなたは経験していないからわかるはずがない。と思われるかもしれないけど、気持ちを汲み取ることはできる。

だから控えめに「そうだね」と言う。

私は改めて弱いのだと思う。
支援者であっても、当事者であっても。

何者にもなれない気がしていて、支援者であっても、当事者であっても、肩書きに紐づけられるイメージや役割が「君ではない」と言ってくるような気がして。

あぁ、私は何者にもなりたくないから、そう思いたいんだ。

だからヒカリテラスの福井千遥は、
支援者でも当事者でもなく、理解をする人、隣にいる人なのだと、そう信じたい。

君はひとりじゃないんだよ。
100%は理解できなくても6%くらいなら理解したり共感したりできるよ。

そういう人になりたかったんだ。

だからヒカリテラスは、生きづらさに共感と理解を届ける言葉の発信地であり続けたい。

私と君は「違う」

常々、同じ人間はいないと思っている。

同じ生きづらさ、同じ思考なんて有り得ないし、100%を理解し共感できる人なんて現れたら気持ち悪いだろうなと思う。

こんなことを言ったら、「ヒカリテラスの人がそんなこと言っていいの?」と反感を買われるかもしれない。

でも、これが一個人である福井千遥の本音だったりする。

生きづらさをどうにかする活動をはじめて早6年が経つ。

「経験したことないのにわかるはずがない。」
何度も言われたことのあるセリフが今でも心に突き刺さっている。

経験したことも無ければ、経験したってわかりっこない。だって私と君は別の人間なんだから。

昔から、私は、100%や全てを理解し共感することは出来ないことを知っている。

それでも1%でも理解してくれたり、共感してくれたりしたら、とても嬉しくって、孤独感が薄れた経験をしている。

それだけで嬉しかったのである。
これまで1%も理解も共感もしてくれなかったし、そうしてくれる人など存在しないと思っていたから。

生まれた環境も、性格も、考え方の癖も、違う人間でも、

繋がる部分があって、理解できる背景があって、共感できる感情があって、

違う人間同士でも、共感や理解という形で結びつき、隣にいることは可能だと信じている。

だから私はヒカリテラスをやっている。
それに理解の幅を広げるために学びを辞める気もない。

私と君は違う人間だけど、このパーツは一緒だよ。

そうやって言って隣に居られる人を増やしてみたい。

「違う」から「分かり合えない」ではない

私は「君とは違う」「関係ない」と結びつきを遮断される出来事が多かった。

それは私の生きづらさが概念的であり、形のないものだったからかもしれない。

同じだから分かり合える。
違うから分かり合えない。

きっとそんな簡単に割り切れないと思う。
人間ってだけでややこしくて生きづらいのに。

そろそろ「生きづらさの当事者」では無くなるかもしれないと危惧しているからこそ、学んだ知識で生きづらさを見る訓練を続けてきたが、

同じでも、違うでも、全てを分かり合えることは無いと感じた。

私が経験した不登校や引きこもりにも様々な背景や感情があり、その全てに共感はできなかった。

だから諦めるのではなく、私は隣に居ることを選ぼうと思った。

理解や共感という接地面で100%でなくても繋がって、隣にいることを伝えたい。

すべてじゃなくても生きづらい気持ちに「そうだね」と言えるようになりたい。

それは当事者だから余計にそう思うのかもしれないけど、きっと当事者じゃなくてもできることだと思う。

生きづらさに共感と理解を届けたいのは、

いつ「生きづらさ」を抱えて、苦しみ、死を考えるか分からない時代に
より多くの人に「生きづらさ」に対する接地面を持ってもらいたい

からなんじゃないかと思う。

ドラマの世界のように見えるけど、そうじゃない。ドラマにだって共感するシーンがあるでしょ?

そういう一場面の共感のように、「生きづらい」気持ちがわかる人が増えたら、

きっと誰も分かってくれないと感じる孤独感は少なくなっていくんじゃないかなって淡く信じたい。

p.s.
肝心な部分をわかってほしい問題に対してはこれからも検討していかないとね。
いつまで経っても「お腹空いた」ことしか分かってくれないのも苦しいから。

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