パーティが終わって中年が始まり、中年が終わったらまた別のパーティーを始める
pha『パーティーが終わって、中年が始まる』(幻冬舎)を読んだ。
2007-8年ごろ、Twitterにドはまりしていた時期があった。会社員を辞めてフリーランスになったものの、仕事がなくて実家でゴロゴロしていたタイミングで、まだ日本人ユーザーが増え始めたばかりだったTwitterをたまたま知り、夢中になった。当時はギークと呼ばれるIT系エンジニアの人たちがユーザーの中心層で、ネット関連の話題が多かったけれど、そういうことを何も知らないわたしでも充分に楽しかった。「何かまったく新しいことが、いまここで起こりつつある」という空気がはっきりと漂っていた。
phaさんは当時、Twitter界隈のアイドル的存在だった。世間からも、まだ新語だった「ニート」の当事者として注目されていて、TVや雑誌に頻繁に出ていたから、一部のフォロワーの人たちは親しみとからかいの気持ちを込めて「プロニート」と呼んでいた。私はphaさんをフォローしていなかったけれど、みんなから愛されている存在だということはよくわかった。
新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』では、当時「ウェブ2.0」と呼ばれていたあの頃のインターネット界隈の無敵感、性善説をベースにした「世界が大きく変わっていく、それもより良い方向に」という大きな期待が、必ずしも叶わなかった、というか明確に醜悪な姿を晒すようになった現状を、著者自身のライフステージの変化とリンクさせる形で「パーティーが終わった」と表現している。
この感覚は、著者と同世代であり、いちユーザーとしてゼロ年代当時のインターネットやSNSにワクワクしていたわたしには、とても共感できるものだ。当時あんなに楽しかったSNSは、もう無邪気にバカなことをやって遊べる雰囲気ではなくなってしまった。いまやもっと慎重に、節度をもって、あらゆる方向に気を配りながら使うものになってしまった。
この万能感の喪失が、青年期から中年期に移行するなかで体験する体力や感性の衰え、何かを渇望する気持ちの喪失と重ねられている。若い頃にやっていたようなバカな遊び方はもうできない。やったとしても楽しくない。そういう時代ではないし、そもそも体力的にキツい。そういう加齢に伴う個人的な喪失感と、ネット世界の変化がクロスオーバーしている。30歳前後で、あの頃のインターネットの狂乱に全身でコミットしていたphaさんだからこそ書ける、喪失の美学みたいなものが色濃く漂うエッセイだなと思った。
わたしはそれほどネット世界にコミットしてこなかったし、客観的に見ればphaさんとの間に共通する要素はあまりない。同世代で、子どもがいない、そのくらいだと思う。それでもわたしにとって、このエッセイは痛い。心がヒリヒリするし、「昔はよかったな」という、若い頃には反吐が出るほど嫌っていた感傷的な気分が、強く呼び覚まされてしまう。かつては確かにあったのに失ってしまったもの、手放してしまったものへの甘い郷愁に浸りそうになる。
でも、このエッセイの救いもまさに同じところにあると感じる。それは、「失っていくのもまあ悪くはないな」という諦めのような、でもちょっと安心する、肩からふっと力の抜けるような気持ちだ。
失ったものが多いと感じるのは、(良くも悪くも)獲得したものが多いことの裏返しだと思う。著者の場合であれば、何よりも仕事、社会的な立場や知名度、経験値や人間関係、そして誰かとシェアしない自分ひとりの家、などなど。決して自分から強く望んで得たものではないかもしれないけれど、何とか人生をやっていこうともがくなかで、気づけば獲得していた、そういうものが誰にとってもきっとある。最初はしっくりこなかったけれど、気づけば自分自身を構成する要素になっていたもの。そういうものがあることを知っているから、これからの人生が失い続けるものだとしても「まあ悪くないな」と思えるのかもしれない。それが中年の、強みといえば強みなのかもしれない。
著者は、「三十代の後半が人生のピークだったな、と思って」おり、これからの人生は「下り坂を降りていくだけ」のように感じられる、と書いている。でも、これにはあまり同意できない。これは、この半年くらいphaさんの著作や日記を集中的に読んでいて思うことなのだけど、phaさんは明らかに中年以降、つまり60〜70代に人生のピークを迎えるタイプなのではないかと思う。人とゆるく繋がるのは好きだけれど、濃密な一対一の関係性に縛られるのは好まなかったり、自分の感情は自分ひとりで味わい尽くしたいけれど、居住スペースや所有物をシェアすることには抵抗がなかったり、強いリーダーシップを発揮するつもりはないけれどコミュニティを作るのが上手だったりする傾向、そしてバカなことをやるのは好きだけど常識と理性を手放さない傾向は、どう考えてもシニア以降に輝きを発揮するタイプのお人柄だと思う。つまり、phaさんのパーティーが(再度)始まるのは、むしろ中年が終わって以降、高齢者と呼ばれる年代に入ってからなのではないか。
だからわたしは20年後くらいに、phaさんが「中年が終わって、(また)パーティーが始まった」というエッセイを書いてくれるのを楽しみに待ちたいし、そのためには何としても自分の中年期を生き延びねばな、という気分になっている。まず生き延びること。ギリギリでもいいから生き延びること。全然パッとしない日々の暮らしを粛々とやっていくこと。パーティーの後片付けをしながら、新たな会場でまったく別のパーティーが始まるのを見逃さずにいること。それが自分にとっての、中年期の生き方になるのかもしれない。そんなことを思いました。