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凪 NAGI 2

荒波

 ちゃぷん…という、柔らかな水の跳ねる音で葵は目が覚めた。部屋の熱帯魚が水槽の中で跳ねたようだ。目元が腫れぼったく、鼻の奥が少しジンとしている。あぁそうか…と葵は昨日の出来事を思い出した。

 「なんでバナナ置いてないんだよ」と閻魔大王の如く怒鳴り散らす客にひたすら頭を下げ、「申し訳ありません」を繰り返した挙句、午後に出勤してきた上司には「なぜ八百屋が来てない事に気づかなかったのか」と責め立てられたのだった。じゃあ、どう行動すれば私は正解を貰えたのだろうかと、葵はずっと考えていた。後で確認して分かったのだが、八百屋が開店前に来れなかったのは店に向かう途中でガードレールに車体をぶつけ、自損事故を起こしたからだった。きっと運転手も思いがけないトラブルのせいで、店に電話一本入れるのを忘れたんだろう。そして私が八百屋に気づかなかったのは、前日の担当の人がやり忘れた売上入力や書類整理やらを、開店前に終わらせようとし、バックヤードにずっとこもっていたからだ。そもそも、バナナが無ければ今日あなたは死ぬんですか?と葵はその客に問いたかった。だが、本当は葵も分かっていた。店員としてただ客に陳謝し、部下として上司の叱責も受け止め、「私の落ち度でした。次からは気をつけます。」と反省することがきっと正解なのだ。誰も日々の不条理に対して疑問を抱かないし、抱いたとしても時間や労力がただ削られていく。だから、大きさはどうであれ、不条理はただ受け流し、無かった事にする。それがこの世界での処世術だ、と。その日一日葵は、心を無にして働いたのだった。

 

静寂

 時刻は20:00を回ろうとしていた。早めに出勤した分、早めに上がろうと思って効率よく動いたつもりなのに、結局退勤時刻間際になって、レジからお釣りが出ないだの、商品の場所が分からないだのとアルバイトの子達から質問攻めにあったため、帰る時間が先延ばしにされてしまったのだ。
 「つかれた…。」
 声にならない声でそう呟きながら、従業員用の出入り口から外に出た。出入り口のドアを開けた瞬間、冷たい風がぶわっと入り込み、葵の体を一気に覆ってしまった。そうか、もう冬になろうとしているんだなと心の中で独りごちて、ドアをパタンと閉める。さっきまで、色んな音が混ざり合う混沌の中にいたのに、一瞬でそのスイッチがオフになったような静けさに包まれた。鼻の奥がツンとするような空気を吸い込み、そして口から吐くと、葵はバックの中に埋もれたスマートフォンを取り出した。

 ─今終わった。あと20分後にそっち着くから─

 葵は恋人の松田裕太にメッセージを送った。
 裕太の家は、葵の家から車で15分ほどの所にあり、それほど遠くはない。だが、公務員として役所で働く裕太と、勤務時間が変則的な葵とでは、お互いの都合の良い時間がなかなか合わなかった。この日は金曜日で、翌日はちょうど二人の休日が重なる日だったので、葵は裕太の家に泊まりに行く事になっていた。

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