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10月の感想

「霊長類ヒト科動物図鑑/向田邦子」
自らを厳しく省察される向田邦子さんが霊長類ヒト科を鋭く観察され、改めて己を省みること、生きる瞬間についてを語る姿はまさに水羊羹をスパッと切り口鮮やかに仕立て上げ、お気に入りの小皿に飾り、いつの間にかその鮮やかな美味しさと形が過ぎ去っていくそのもので、ユーモアも忘れぬ心にも毎度のこと敬服する。

おっちょこちょいなエピソードに思わずふふっと笑みを溢してしまうこともあれば、生きる瞬間を忘れていることに気付いたり、お父様始めご家族、ご友人との記憶、旅情、日常にしんみりとしたものもある。

表紙の虎とカメラがとてもかわいらしい。「写すひと」を拝読しこのデザインに感嘆すると同時に、全ての粋なカバー装画、粋な映像作品の主題歌やポスター、粋な書籍のPOP制作を担当される方々の隅々まで行き渡る心意気に改めて畏れ入るのである。

まだ数えるほどしか拝読していないのでこう述べるのは大変恐れ入るが、向田邦子さんのお父様とお母様の関わりには感服するものがある。
人一倍惨めな幼少期を過ごし苦労していき、叩き上げで支店長に就任し、誰よりもコンプレックスを抱き家族に甘えたい一心、劣等生だった故に一番病を発病したこと、それらを隠すかのように常に癇癪を起こし怒鳴り散らす威張り散らすお父様は、一般的には(というがこれは己の器の小ささが大きく占めているのである)家族に疎まれ愚痴や呪詛の対象、離婚、最悪は絶縁の流れとなるであろう。

お母様はお父様を理解し受容、許容している。何処かに吐口があったかもしれないがそれを悟らせない姿勢、寛容さ、寛大さを供えている一方、理不尽なこと、然るすべきことはぴしゃりと叱責する。この精神の良さと姿勢にお父様は縮み込み、常時癇癪を起こし怒鳴り威張り散らすなかでも、ご自身が幼少期に遭った寂しさとだからこそ家族を慮ることを忘れずにいたのではないか。このお2人のバランスが向田家を保っていたのであり、向田邦子さんの鋭い観察力、省察力、洞察力、度量はもちろん、天性のかけがえのない人間味と溢れるユーモアがより培われたのではないかと推測するのである。

冒頭で述べたことに加え、当時はお父様を疎んじながらも年をとっていくなかでお父様が人間味溢れていたこと、生い立ちを観察しそこから生まれるであろう気持ちを想像して受容する向田邦子さんの度量に幾たび感服するのは言うまでもない。

「下町やぶさか診療所/池永陽」
「下町やぶさか診療所 いのちの約束/池永陽」

人間味溢れ個性豊かな登場人物たちの世界に温情を感じることもあれば腹を括ったものに強い感銘を受けることありの下町物語であった。

麟太郎と麻世の関わりは「じいさんと孫」というり「相棒」といったほうがしっくりときている。それは以下のように考える。

麟太郎は高齢者の患者を診たり、身のうち話を聞いている。彼ら彼女らは年齢もあるためか鬱憤に地団駄を踏んだり、境遇がどうしようもないために鬱々としたり、耳を塞ぎ目を覆いたくなる状況を持つ場合もある。

反対に麻世は己の境遇、闇に立ち向かい討伐しようと奮起している。それは麻世のたちに加え未来を生きる年代である特権であろう。だからこそ麟太郎は麻世に普段より倍のお節介を焼き、倅の潤一とのやり取りに結婚を思い巡らしたり(これが全く卑しいものがなく渇き切っていて面白いので敢えて明記した)、自分だけでは解決に至らない事柄に麻世へ協力を頼むのではないだろうか、と考えのが1巻。続いて「いのちの約束」を読む。
「いのちの約束」は先に述べたことをより強く感じたことはもちろん、麟太郎と麻世も話してる潤一の理屈っぽく、子どもじみた行動や発言が際立っており笑ってしまった。

「あなたの人生、片づけます/垣谷美雨」
垣谷先生の痛快なテンポは毎度爽快で、重く暗い課題であるのに陰鬱さがないのはユーモアがあるからだと気付く。まずは大庭十萬里に同感の嵐であった。

「要らなくなったら捨てればいい」「あったら便利」「あると安心」「気に入られたいから」「周りが持っているから」「安売りしていたし」「100円だからいいや」いうのは心も身体も疲労困憊の状態であり、快楽を得るため、不安や寂しさを紛らわすために衝動買いし闇雲に捨てるもしくは溜め込むを繰り返すことが断捨離ではない。

「溜め込むのが生活の知恵」という必要以上の買いだめ、「買ったのに勿体無い」「いつか使う」と使わぬ物を置いておくことが「物を大事にする」ことではない。

部屋の状態は心の鏡というのは半ば嘘ではないと思う。

「いつか使う」は「もう使わない」だと認識し、見ると過去に遭遇したよろしくない出来事、他人を思い出し喚き散らしたくなる衝動に駆られる、買ったことを後悔する、苛々する、鬱々する、憐憫に陥り悲観するであれば捨てる。

そうすることで心にゆとりが生まれ、時間を上手く遣うようになり、気持ちのいい人との繋がり、心地よい生活を重んじる。物理的なことだけではなく「人生」も「生活習慣」もいい方向に向かい、自立と自律の確立にも繋がる。見て活力を得られるもの、愛着のあるものを手元に置く。何がどれだけあってどこにあるのかどのくらいあればよいのかを把握する。「良質な物を少しだけ持ち長く大切に使う」という古き良き習慣、ウウェペケレの「暇な小なべ」「なべ神の怒り」の教訓の「物を大切にする」が身に付く。それが「もったいない」「断捨離」であると捉えている。

「スーパーを冷蔵庫と捉えればいい」同感である。

「あなたの人生、片づけます」に拍手喝采である。

そして十萬里の対応に感銘と敬意を表した。
十萬里は同情の言葉を発していなかった。家もとい部屋、収納の実情を淡々と述べる、対策を提供する。
それは叔母が遭った子どもの喪失、母と叔母のやり取りから得たものだった。
その聡明さと観察力、自己憐憫や悲観に浸り優柔不断を絶たせる勇気がない日々を送っていること、自立できぬまま連れ合いに先立たれ抜け殻同然の生活を送っていること、「助けて」と声が挙げられない状態でいること、独立した子どもたちに依存していることに気づかない親に危惧している子の気持ちと遺品整理は骨を折ることだと知り老前整理に至ること、物の管理ができぬたちを気付かせるコーチングスキル、洞察力に感服するのである。

個性豊かな登場人物たちの織り成す断捨離に感心し、良き未来を拓くことを願うのである。

本著を通じて「わたしの部屋には何にもない/ゆるりまい」「薄闇シルエット/角田光代」「そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノート/はやみねかおる:作 村田四郎:絵」「人生はだまし、だまし/田辺聖子」の一文一場面、「ゴミ清掃員の日常/滝沢秀一、滝沢友紀」を思い返しこの作品たちに続く、当たり前だからこそ忘れがちな「断捨離」の意味、「良質な物を少しだけ持ち長く大切に使う」「物を大事にする」を改めて心に刻むだけでなく、子どもを亡くした喪失感を通じて同情、同感、共感、共鳴の意味合いを深く考える作品であった。


「占い屋重四郎江戸手控え/池永陽」
人の儚さ、滑稽さはもちろん、人物たちの人間臭さが沁みた。ユーモアな観察力、表現、一人一人が生き生きしている。

「おっさんたちの黄昏商店街」「やぶさか診療所」でも感じていた手合わせ、果し合いが醸し出す臨場感の正体はとても滑らかにその世界へ吸い込むものかと気付き、これも池永陽先生ワールドであろうかと思う。

しっかり者のおさよに狼狽する重四郎が面白く、秘かに想いを寄せるおさよの可憐さが好ましく、重四郎と左内の男女観の差が可笑しくもあり「そういう感覚もあるのか」と感心もしていた。

「煮売・権助」の料理が江戸時代の下町特有の温かさ溢れているのでご相伴にあずかりたい所存である。


「猫がいなけりゃ息もできない/村山由佳」
「村山由佳先生。どこかで聞いたような見たような気がする……あ、ネコメンタリーだ」タイトルにも惹かれて手に取る。

村山由佳先生のこれまでの人との出会い、環境、背の君殿との繋がりの一部を見て、人においては縁とは、悪くもあれば良くもあること、悪縁は周囲にかけらている呪縛、自らにかけている呪縛をさらに強めてしまう。そして良縁は即ち繋がりであり信頼の間柄であること、呪縛から解き放つひとつの救命道具であり、呪縛を解き放つのも己次第であるという当たり前のことをつくづく痛感した。

一方で猫との出会い、繋がりは良きもの、尊いの一点に尽きるのではないだろうか。もみじちゃんとの出会い、銀次くん、楓ちゃん、サスケくん、青磁くんが村山邸に来た時のねこ関係、背の君殿が来てからの猫たちの暮らしの変化、そして村山由佳先生が如何に猫たちに救われていらっしゃるかを観てそう考える。猫とは誠に不思議な生き物である。

しかし、村山由佳先生ともみじちゃんの過ごす時間読み進めていくうちにこの考えを見つめ直す。村山由佳先生にとってもみじちゃんは《半身》であったからだ。《半身》儚くてなんて厳かであろう。それ以上の表現がなく言葉が出なかった。

T嬢の厳格さ、聡明さは天性のものでもあるだろうし、培われたものでもあるだろうし、前世でどれほどの徳を積んだのだろうと思わざるを得ないとなる本でもあった。

「向田邦子の陽射し/太田光」
「僕も向田邦子さんと同じ歳になった。しかし、自分は一体何を残せるであろうか」「僕は叱られたい。何をべちゃくちゃ饒舌ているんだと叱られたい。けれどきっと、笑って見つめていらっしゃるだけであろう」

「新装版 夜中の薔薇」にて太田光さんはこのようなことを仰っていた。向田邦子さんを慕い、畏敬を示された姿に目を張った。その太田光さんによる向田邦子さん解体新書を今回拝読した。

向田邦子さんの作品の恐ろしさと格好良さについて、恐いのに読むと今まで以上に人が好きになり、いつも言葉を発するのが怖いと語る太田光さんに大いに共鳴しその表現、思慮、言葉深さに耽った。

今日まで拝読した向田邦子さんの作品たちにこれまで己は「人生を愉しむコツ」「何気ない日常のかけがえのなさ」「日常にぷつりと刺激を与える針の出現」「人間の善し悪しを観ること、洞察すること」について考え、思い巡らしていた。太田光さんは向田邦子さんの「人間性」「思想」「理論」「美意識」「文学性」を向田邦子さんが過ごされた背景や世論を推察し魅力を多彩な表現や言葉で語られていた。その視野の広さ、見識の深さに驚き新たな世界が広がった気がした。「なるほど」と共感し畏れ入った。向田邦子さんにより畏敬を示し、太田光さんをより好きになった。

これから拝読する向田邦子さんの作品たちが楽しみになった一方で恐くなったのはもちろん、これまで読んだ著作を反芻しその世界に浸る幸福を噛み締めた。既に拝読した作品たちをもう一度拝読したくなり、向田邦子さんの全作品を拝読したらこちらを改めて拝読しようと思う。

幼少期から虜になっている太田光さんの笑い、考え等に下卑たもの、糾弾のようなもの、揶揄めいたものがなく、歯に衣着せぬ物いいが心地よいのはこの洞察力と思慮深いものではないか。本著を拝読しそう感じた。

田中裕二さんの「普通」「素朴さ」が好きで、太田光さんの歯に衣着せぬ物いい、洞察力、思慮深いものの虜となっている。各人も好きでこの御二方が織り成す「爆笑問題」ならびに「爆チュー問題」が好きなんだと改めて恍惚に浸るのである。

「フーテンのマハ/原田マハ」
原田マハ先生のユニークで軽快な文体、温かいタッチの挿絵がかわいらしくて和むことはもちろん、画家の原風景に想いを馳せ偲ぶその姿は静謐なものを感じた。

旅好きもとい移動フェチについて語られる章にて「目的はあってないようなものだ」の一文に内田百閒先生の阿房列車が浮かんだがこの時の百閒先生は常に不機嫌であるので似て非なるものと気付き勝手に可笑しくなったり、車両にての不倫カップルの観察はかなり面白いという一文に思わず吹き出してしまった。

その人間観察の事項で旅先電車で出会う高校生たちの羨望と寂しさが交錯する場面や初々しさ、大人になりたくてたまらないツッパリ具合を目にしてその生態を楽しむこともあればおばさん軍団のパワーに圧巻されたりボーゴスを見て得した気分となるという場面もまた面白い。

原田マハ先生が出会ったつゆ焼きそば、蟹炒飯がとても美味しそうでいつか食べてみたい(話が逸れるが「鉄舌」に大いに同感である)
ご自身を牡蠣の生まれ変わりと語るほどの牡蠣好きも微笑ましく、金沢能登半島は穴水で牡蠣の食べ過ぎによる体調不良で「美味しいもの、愛しい味は少ない量で味わうからこそ美味しく愛おしい」と語られたのち広島で牡蠣ご飯をたらふく召し上がったのことで笑った。

牡蠣の生まれ変わりと語られたのちに餃子の生まれ変わりと語られ、餃子シスターズが出会った至極の餃子もあれば5%の希少に含まれる不味い餃子に当たったエピソード、餃子との歴史を綴る「餃子の生まれ変わり」を読み角田光代先生も(「世界中で迷子になって」か「降り積もる光の粒」のどちらだか忘れたが)餃子について綴られていたことを思い出し「旅に餃子が必修事項な方、旅に餃子と縁がある方もいらっしゃるんだなあ」と感慨に耽った(大国中国で生まれシルクロードを経て伝えられたと角田光代先生も原田マハ先生も仰っていたのでそりゃそうかとなる)
「しばらくしたらナポリタンの生まれ変わりと熱弁を奮っているかもしれない」というユニークにまた笑った。

原田マハ先生が出会うおじさんたちにも角田光代先生の旅の神様を思い出し、その精神の良きおじさんの不思議なパワーに魅入った。

わざわざ旅先で買わなくてもいいものを振り返り「何で買ったんだ??」と「変な買い物」振り返りもすれば「変な買い物」のための旅もある(旦那様の寛容さという名の(原田マハ先生曰く)諦観ぶりにも思わず笑ってしまい、「ぼよグル」に至るきっかけとなった旧知の友人御八屋千鈴殿との信頼関係、繋がりに温かくなり千鈴殿からみた原田マハ先生がこれまた面白い。

単なる旅行や仕事で行くとよそいき顔の街がその地に住われるご友人に会う旅となるとその街が忽ち輝くという表現が素敵だ。

原田マハ先生はご自身の美術史小説の世界観、それを書く際の決まりごとを言い訳と仰るが、この謙虚さ、しんと向き合う心意気、またひとつの「神の視点」を見てその広さと風光明媚さに魅入った。

カフーとの出会い、お父様との記憶、繋がり、温かさに原田マハ先生の人生のバッグボーンの一部を見た気がした。

人生、食べ物、絵画、骨董品、家具、人との繋がり、例え目的がなくとも旅とは颯爽、時には憂を含んでいたり、笑いもあれば涙あり、静と動に溢れているのであろうと感じた。

「いってきます!」

原田マハ先生もとい、フーテンのマハさんの旅への魂の叫びでもあり、お父様への感謝、カフーへの感謝を伝える台詞でもあるように聞こえた。

「開高健のパリ/開高健(絵:モーリス・ユリトロ 解説:角田光代 写真:山下郁夫)」
開高健は角田光代先生を機に知った。本書の解説は角田光代先生。高揚したのは言うまでもない。

解説にかえてと称して冒頭に解説があった。影響受けやすいのと新たな視点を見た時の新鮮さを味わいたいので本文を読み終わり感想を記帳した後に解説を読むことにしているので今回もそのつもりだった。しかし、これが通用しなかった。
開高健の付随する世界は複雑怪奇で入り組んでいたからだ。訪れたことのない国を地図を待たずに歩くようなものだった。この本に於いての解説は開高健の世界を歩くための地図だった。しかも大好きな角田光代先生が創られた地図だ。
ユリトロがどんな画家であるかの少しばかりの予備知識も入れこの「地図」を片手に、いざ練り歩く。

人間嫌いなのに人間から離れられないと自身を語り、角田光代先生の仰る通り中年期のユリトロの作品を「駄作、凡作」「馬鹿みたいにくりかえしくりかえし描いた」と至極痛烈に語る。ユリトロは素人画家であると述べ、「ベルリオーズの家」については「テクニックの微妙な進化はみとめるとしても、酔えない作品である。」と辛辣極まりない。その一方でユリトロの人生を語り「眺められることは、一つには、その執拗な人間嫌い(ミザントロープ)の志向である」「人間は絶対に登場せず、ときたま登場しても、なぜかその数は五人ときまっている」と観察していた。

個人の範疇は承知の上のことはもちろん、上手く語ることもないし上手く語るつもりもないので空想をただつらつら述べさせていただくと、開高健は無意識に、いや自覚していたかもしれない。ユリトロを自己同一化、同族嫌悪をしていたのではないだろうかと思った。だからこそ至極痛烈に語り、その一方で自身の人生に揉まれるユリトロの心境を推察しているのではないだろうか、と。

開高健が見たパリは無機質でどこか怪しく怖いものが漂っているのもこの気質によるものと開高健が孤独に浸っていたからであろうか。いやまた別のものか。そんな問答を繰り返していた。

御馳走を食べると戦中・戦後の窮乏期を思いあわせる皮肉を自らに強いてたのしむところがあると語る開高健が物憂げで切ない。ここで「両極端は一致する」と語る開高健がいた。
先月拝読した古川緑波先生の「ロッパの非食記」にゼイタクなのにどこか物憂げで切なく感じた理由が少しばかりわかった気がした。

アルジェリア問題を怜悧に綴った「ごぞんじのようにパリは…」でパリに新たな印象を持った。

「メニュ」「キャフェ」という表記が「バタ」「シチュウ」のように時代の郷愁を感じてなんとも好ましい。

本を読んだり、作家を知ったり、曲を聴くと好きな言葉や表現が見つかる。本書では「人を強いず、人に説かず、ただ描くだけで心の円を閉じ、満足したもののようである。」「めいめい"旅"についての哲学と抒情詩を持つ。それは料理や、恋や、夕焼とおなじように徹底的に個人的で、偏見である。無邪気でありながらそれゆえ深刻である。
他人にはつたえようがないから貴重であり、無益だったとしても、だからこそ貴重なのである。若き日に旅をせずば、老いて日の何かを語る。
そういうものですよ。」が好きになった。

俗な感想を申し上げると人間嫌いの自身を語る一節に「なんか、すごい世界観だなあ」と理解力のない時期に読んだ太宰治の人間失格を読んだ際の傍観が出てきたことに当時の己の若さを懐かしく思った。

偶然か必然か、ひとつ前に読んだマハさん(本来なら原田マハ先生と呼ぶべきだがその「フーテン」と巡り会うカフーに感謝する姿勢が素敵で「マハさん」と呼んだほうが礼儀な気がしてこう呼ばさせていただきます)もアート、パリについて綴られていた。
美術史、アートの世界へ散歩する機会が来たのかもしれない。そう感じた。

「雨利終活写真館/芦沢央」
果たして今度はどんなふうにのめり込み種明かしがわかると粟立つミステリーなのかと意気揚々とする気持ちとタイトルからして粟立つミステリーではなく人情物語なのかなという予想を胸に本書を開く。

雨利写真館を舞台にハナの視点で語られる少しひんやり、コミカルでほんのり温かいミステリーであった。

ハナのお節介は垢抜けない純朴さの性分なのもあるだろうが祖母と父への償いとも捉えられた。独り善がりで猪突猛進気味、自己憐憫に囚われる部分は痛々しく感じつつもその部分は若さでもあるので眩しさも感じる。

職人気質で無愛想だけれど否定も肯定もしない度量を持つ雨利、何も考えていないようで実は考えているのかそれともナチュラルコーチングなのかわからないエセ関西弁の道頓堀、ザ・ビジネスマンの痛烈さを持つ夢子。ここにハナが加わった雨利写真館はより個性際立ち見ていて頼もしい。

記憶とは何か、許すとは何かを考える作品と感じた。

度々芦沢央先生の作品の魅力を考えるのだが本書でも見つけた気がする。
当然のことで何かあると読み進めるがその「何か」は既視のもの(いわゆるお約束)であり、既視を見事に粉砕し衝撃を与え己の視野の狭さや洞察力の皆無を思い知り呆然とすることもあれば、その種明かしに新鮮さを感じて「面白い!」と感動する。これも芦沢央先生の魅力だと感じるのであった。

それにしても、芦沢央先生を始め作家の先生たちのパワーのひとつ、物語の題材や背景となる参考文献を多く読解し作品を創り出していくパワーは毎度感嘆の唸りが上がる。当たり前のことだけど当たり前じゃない。そんなことを改めて感じたのである。

「空の冒険/吉田修一」
旅先で出逢った人々との交流、旅先で見た景色をきっかけに引き出された記憶、振り返るは己の半生、これから旅に出ようとする人々の心情と記憶、日常のルーティンをきっかけにふと旅する人を思い出す人、これからの旅に肩に力が入ったり自身を鼓舞する人を見てかつてを懐かしむ人、旅ゆく人を想う人。収録された12本の小説たちはその淡さを放っていた。
とある書籍を拝読してから吉田修一先生の小説で好きな表現の1つは会話が少ないこと、人物の経歴、動作を淡々と述べていること、それを述べる語り手の洞察力を小気味良く感じていたことに気付いた小説たちでもあった。

ブータンで感じた人の豊かさについての見解がとても素敵に思った『ポプジカ、ブータン』ぎっくり腰に遭った時に聞いた知人の方の針治療の勧め文句の感想に思わず吹き出してしまった『シンジュク、トウキョウ』吉田修一先生の語る行定勲監督に人の魅力を発掘した気がしたのと吉田修一先生の推察力に畏れを為した『プサン、カンコク』

吉田修一先生は海外の映画館で映画を観賞されるそうで「そういう楽しみ方もあるのか」と感嘆し、映画館でその国の慣習、雰囲気を知ることもできる、言葉を完璧に理解せずとも感動を味わえる素晴らしさを知り、とても新鮮だった。パリの映画館で目撃した客同士の大喧嘩の感想が痛烈かつシュールなこともあれば、台北で鑑賞された映画を日本で観てもまた涙を流していたという吉田修一先生にまた素敵なものを感じた『タイペイ、タイワン』

『悪人』を巡り、出会う旅をされていたという吉田修一先生。個人的に「悪人」とは「見る角度が違うと誰しも悪人となる」という感想を抱いたが、吉田修一先生の「悪人」についてを拝読した時、その感想のみにしていた己の狭い視野が切り拓かれ、新たなものを見た気がした。

この他収録されたエッセイたちは吉田修一先生が訪れた国内外で印象を受けたことを綴られていて、「旅」は本当に面白いとつくづく感じた1冊であった。


「作家の口福/恩田陸,絲山秋子,古川日出男,村山由佳,井上荒野,山本文緒,藤野千夜,川上未映子,森絵都,津村記久子,三浦しをん,江國香織,朱川湊人,磯﨑憲一郎,角田光代,道尾秀介,池井戸潤,中村文則,内田春菊,中島京子」
「作家の口福おかわり/朝井リョウ,上橋菜穂子,冲方丁,川上弘美,北村薫,桐野夏生,辻村深月,中村航,葉室麟,平野啓一郎,平松洋子,穂村弘,堀江敏幸,万丈目学,湊かなえ,本谷有希子,森見登美彦,柚木麻子,吉本ばなな,和田竜」

「森鴎外でいう饅頭茶漬けだろうか」紹介文を読みそう思いながらページを捲る。
そんなことを忘れて夢中になった。「口福」なんて素敵な言葉だろう。
元気になる自分流グルメ、自分だけの御馳走。食べて歴史に想いを馳せたもの。御馳走してもらったメニュウに元気になった御礼。いきつけのお店。お店開拓。食の革命。味覚、嗜好の変化。地域性。異国の食文化。恩師、家族、友人との記憶。甘酸っぱい記憶。切ない記憶。苦手なもの好きなもの。調理事情。数ある物語で見聞きした料理の記憶と憧憬。食を通して発見した自分の性質。
「口福」の他に「鰻」「おやつ」「カレーライス」「猫」「犬」「丼もの」と様々なアンソロジーがあるように、1つからさまざまな世界が広がっていることを幾度も目にしては心を弾ませている。

恩田陸先生は腰痛をきっかけにロールケーキに目覚めたという「それがいつ終わるかが目下の関心事である」だったそう。このユーモアがなんとも心地よくて好きだ。

村山由佳先生の「食べるとは、生きるとは、」に共鳴する。

角田光代先生の旅と食事に纏わるエピソードをここでも会い見えることができて嬉しい。「1ヶ月間食べ続けなれば」「食に対しての自分」についてに頷くばかりである。

古川日出男先生は愛猫の食事内容変更後の出来事を綴られていてその内容に大いに同感だった。ある小説を創り上げるための期間、東北ラーメンを食べ続けたという。「ラーメンは現在3ヶ月に1度である」というのにもうんうんと頷いた。

中島京子先生のお米への愛に賛同の嵐だ。

桐野夏生先生は「ロッパの非食記」について綴られており、その感想に膝を打った。

穂村弘先生の食材に纏わる短歌の読み解きが面白く、違った形で別世界の視点を味わった。

己は今まで文章に対して「面白い」「愉快」「痛快」「温かい」「爽快」「陰鬱」「奇天烈」といった形容詞、形容動詞を用いて楽しんでいたが、森見登美彦先生は味覚、舌触り、喉越し、口当たりで文章を楽しまれていた。それがとても魅力的且つ新鮮で驚き「なるほど!そういう次元もあるのか!」と共感した。

柚木麻子先生の回転寿司巡りにわくわくし、回転寿司と柚木麻子先生の軌跡にしんみりとした。

本谷有希子先生の「会食音痴」に同感し是非とも「会食音痴集会」に入会したい。吉本ばなな先生の「ひきだしの店」に共鳴した。

ふう、とため息が出る。食べ物の旅もなんてまた面白いことか。

「僕の神さま/芦沢央」
水谷くんの推理力、お見事!
だがそれよりも圧倒されたのは相手の話を否定も肯定もせずただただ傾聴し話を要約、複雑な聞き返しをするその技術の高さである。
「ひえー…」と声をあげてしまうくらい恐ろしい。余程前世で徳を積んだか常日頃取得に勤しんでいるのかそもそも天性なのか…恐ろしい(こう思うのは己だけで人としての質を培っていれば大抵備わるものだろうと気付き、まだまだ修養の足りなさを痛感する)
そんな水谷くんは「名探偵と呼ばれたい」らしい。微笑ましい。

自分の感情、気持ちを上手く言葉にできないもどかしさ、独善的な正義の悍ましさ、否定してしまえばそれまでが間違っていることとなることを恐れを追求してしまった故に起こる恐怖且つ不憫さ、何も知らないことがいいこともあること、吊し上げや揶揄の痛ましさを扱っているように見えた。それでも陰鬱とした雰囲気がないのはあどけない佐土原くんの視点から語られるのと水谷くんと佐土原くんのコンビが頼もしいからであろう。佐土原くんのあどけなさがまたかわいらしい。

拝読後、この2人の若人によき光があることを切に願っていた。

「おばあさんの魂/酒井順子」
直感が「読むしかない」と告げていた。

「大おばあさん時代」を迎えるにあたっての心得を、自らの魂は「おばあさん」であったと知り語る酒井順子先生がそのルーツとなった3人のお祖母様、そのお1人の綾子様始め、日本を代表する「おばあさん」たちの人生を紐解かれ、時代背景とその世相を考察し、ユーモアに満ちて語られていた。(余談だがお聖さんのことが書かれていたのがとても嬉しい)

人々を尊重しご自身を振り返る酒井順子先生、共感し、共鳴される酒井順子先生が毎度素敵であり着眼点がまた面白い。

「年を取る」ことが楽しみになるというのが酒井順子先生の作品の魅力ではないかと発見した。「年を取る」ことが楽しみになる一方で考える。数々の感想で繰り返し申し上げている自己を省察し他者を洞察すること、「そこもあるのカー」を大切に寛容であること、負を受け容れ「まあこんなとこやな」と達観している姿勢を持つことが大前提であるが故に「経済力」はもちろん「生活力」「自律」「大事な人との繋がりを大切にする」「独りを慎みソリュテュードを愉しむ」ことで「年を取ること」を楽しみにできるのだろう、と。兜の緒を締める1冊であった。

「けむたい後輩/柚木麻子」
各章が「真実子、○○」とあるので真実子視点と思い込んでいたが、真実子が崇拝(というより狂信状態となっている)栞子、真実子の親友の美里の視点から物語れていて面白かった。

栞子と美里は正反対なように見えるが「自分を持ち上げてくれる」「寂しさを埋め合わせる存在」「自信を保つため、自分を優位に立たせるに貶す相手が必要」という自己承認不安を持ち合わせており、同族嫌悪のようなものを抱いているように見えた。それが生きることに踠き苦しむことと感じているのでとても人間味溢れている。人の噂、スキャンダルに夢中になりドロドロしたものを口から出す姿は醜いが、その醜さがとても人間らしく滑稽だ(特大ブーメランである)

面白いこともあればおどろおどろしいこともあった。それは真実子だ。実に嫌味で心情を掻き乱す行為、恋は盲目状態、狂信的であるのに本人にまったくそのつもりがない。だからこそ恐ろしい。怪異並である。

脚光を浴びたい、そんな場所を持ちたい。誰しも持ちうる欲望始め毒のある人間を澱んだ雰囲気を伴い陰鬱に表現する、ユーモアを絡まさせからりと渇き切って表現するというのがあると考えているだが、柚木麻子先生は後者のように感じる。どちらも面白い表現だ。

始めは「自分にとって存在がけむたい後輩」の話かと思いきや、次第に「先輩がけむたい後輩」となる流れに思わずため息をつくのであった。

「パレード/吉田修一」
都内の2LDKでルームシェアをし、その間取りで過ごす「自分」を演じる若き男女4人、そこに現れた1人の謎の少年、それぞれが自分の居場所を求め、やりたいことを探す、仲良しを繕っている仲良しなのか、至極当たり前だからこそ他人にはと割り切り暮らしている若人特有の優しく怠惰な日常が綴られるという群青劇の予想が覆る。

和やかに思えた空気が一瞬にして張り詰めたものに変わり、寒気を通し越して何も考えられず呆然と立ち尽くしてしまった。

川上弘美先生が「怖い小説だ」と解説されたことに、ただただ頷いた。

「ぼくの短歌ノート/穂村弘」
穂村弘先生のエッセイはよく拝読するが「シンジケート」以外の短歌についての本は全然だったので少しずつ読んでいきたいと至る。

穂村弘先生の解説は毎度のことユニークで興味深い。掘り下げていくこともあれば素直に仰っていることもある。小説、映像、音声では表現できぬことが短歌にあるという一文にハッとする。短歌という小宇宙、短歌というツールで別世界、異世界、別次元、異次元を知れた気がした。

句読点の入る位置。全てが平仮名で作られているかはたまた漢字で作られているのかで受け取り方も変わってくる。
その人にとってその景色は何を意味するのか。全く感情が含まれておらずただ状況を観察するものもある。その観察はドラマチックな目線もあれば神の目線もある。なんて面白いのだろう。

短歌の面白さを痛感できるのは穂村弘先生に出会えたからであろうと感謝したのであった。

「ジヴェルニーの食卓/原田マハ」
美術史、画家を基にした作品は「神撫手/堀部健和」「さよならソルシェ/穂積」以来だ。画家たちがどのようにマハさんマジックで彩られるのか楽しみにページを捲った。

「うつくしい墓」はマリアから語られるアンリ・マティスとパブロ・ピカソだった。ライバルでもあり盟友であった2人の画家の間柄はマリアの言うまさに豊穣な融合でありその微睡みを感じていた。
訪ねてきた記者がロザリオ礼拝堂にまだ訪れていないことを知ると『人生の「楽しみの箱」がひとつ、まだ開けられずに残っているようなものよ。』とマリアは言う。その優美で煌めいた表現にうっとりとした。
『あなたの人生に残してあった「楽しみの箱」をひとつ、今日、開けましょう。』
あの日、マティスの元へ行く日、マダムはこのこともマリアに伝えていたのではないだろうか。そしてマリアは次世代にマダムの言葉を伝えている。そんな気がした。

画家メアリー・カサットの半生と彼女が記憶するエドワー・ドガと1人の少女が描かれた「エトワール」
描くことの最果てを目指したドガとエトワールを目指す少女。ドガはこの少女に共鳴していたのではないだろうか。そう思ったのはメアリーの直感を見た時だ。「もう、届かない。エドガーは、私の手の届かないところへ行ってしまった。もう、追いかけても追いつけない。まるで、星の高みのようなところへ。」
余談だがドガは先に述べた「神撫手/堀部健和」で知ったことを思い出し読み返したくなったことはもちろん、マハさんを機にドガをさらに知りたくなった。

新たな美を追求する若き画家たちを見守った「タンギー爺さん」はその娘による手紙だった。ゴッホが彼の肖像画を描いたことをこの小説で思い出し、あの肖像画を観るときがまた楽しみになった。

モネにとっての「ジヴェルニーの食卓」は幸福な画家の証だったのではないか。

お聖さん、司馬遼太郎先生、そしてマハさんと史実に基づいた小説たちは「もしかしたらこんな風に感じていたのかもしれない」と楽しく空想したり、実際あったかのように錯覚する楽しみもあり面白い。
マハさんの美術史小説が特段好きなような気がするのでこの後も拝読が楽しみだと感じる1冊であった。

「作家と一日/吉田修一」
吉田修一先生のエッセイの虜になりつつ今月この頃。その魅力はなんなのかまだ判然としないが、それを見つけてしまうのが惜しいくらい虜になっている。

「深夜の友情」に羨望する部分があり、歩数が増えていることを『チャリン、チャリンと小銭が貯まっていくような』という表現に至極同意であった。

吉田修一先生は海外のホテルで日本では放送されていないその国の番組をご覧になるらしい。先日拝読した「空の冒険」で海外の映画館に立ち寄る同様、素敵な旅の仕方だと感じる。

台湾旅行を綴る「豆乳、揚げパン、牛肉麺!」でいつか台湾に赴く日がより楽しみになった。

先日拝読した「パレード」で走った寒気の原因が発覚しまた呆然としたこともあれば、ところどころ金ちゃん、銀ちゃんが登場していて微笑ましい

「作家と一日」というタイトルについて説明するあとがきにて、その日その日を過ごせる喜びを改めて噛み締めたのであった。

「くまちゃん/角田光代」
フラれたとも言えるしフったも言える関係の男女たちのつながりの輪を見た。

それまでの自分の時間をすべて恋人のために費やすようになり違和感を抱きつつもそれを幸せと自分に言い聞かせていたのがあることを機に元の自分に戻りフったことに喝采、幸せだった自分を懐かしむ姿に慰めたくなったストーリーもあれば、数年後フラれた相手に共感し、その相手が願った地点に今いることを願う人物たちが眩しく見え、フラれた当時は呪詛する日々だったが、数年後は共感するかもしれない。そんな変化を愛おしく感じるストーリーだった。

必要だと感じた時にするも恋愛、必要ない時はしないのも恋愛。恋愛だけでなく友情、家族、すべてのことに言えそうだと思う。「薄くゆるい関係」というものに「ほほう」と思うことあり、「成功」の物差しは普遍化できない事項だともつくづく感じたストーリーたちでもあった。

「無名仮名人名簿/向田邦子」
現時点で特段ユーモアに溢れていて思わず笑ってしまった随筆集だった。面白いこともあればしんみりとする場面、耳の痛い事項もあるし兜の緒を締めねばと思うこともある。読むたび沁み入り、畏れ入る。そんな向田邦子さんに幾度も魅入るのである。

「女盛りは心配盛り/内館牧子」
ド直球に世論を叱責する姿に圧巻であった。一言も発することが出来ず、内田節にただだだ頷いていた。思わず「うっ……」と唸ってしまう身に覚えのある耳の痛い話から共感と同感、共鳴が渦巻くことが多々あり。今後を過ごす上で留めておきたいこと満載であった。

10年前のあの震災について、そしてここの数年の情勢を改めて考える一冊でもあった。

「キャベツくんのにちようび/長新太・作」
果たしてどんなシュールが待ち受けているのかとわくわくした。

おおきなしろいねこが3匹。一面のキャベツ畑。ブタの大群。

言葉が出てこない。目が点になるシュールだ。このシュールさも心地よきかな。

へっぴり腰のキャベツくん、ブタヤマさんが微笑ましい。

おおきなしろいねこの去り際に思わず「ふふっ」となってしまった。


「ずぶぬれの木曜日/エドワード・ゴーリー 柴田元幸=訳」
傘を巡った雨降る木曜日。同じ日に違う場所で誰かがどんなことをしているのか、過ごしているのかを見られるのはつくづく面白いと感じる。

屋根にいる黒づくめの不審者のイラストがユニークで黒猫黒犬がかわいらしい一方、子どもの扱いが相変わらず不遇でさすがだなと感心してしまう。

「贅沢貧乏のマリア/群ようこ」
鋭い観察眼でぴしゃりと語るなかにユーモアが溢れる群ようこ先生が語る森茉莉さんに「ほほう」と唸る。

決して贔屓目に見ず、かといって一方的な糾弾ではない。憧れている部分は素直に憧れていると語る姿は格好良い。群ようこ先生のこの姿勢が好きであると改めて感じる。

「鍵のかかった部屋 5つの密室/似鳥鶏,友井羊,彩瀬まる,芦沢央,島田荘司」
密室トリックがテーマ、しかも予めそのトリックがわかっている。斬新な設定であるのにひとつのトリックがこんなにも彩られていることがさらに面白みを増していた。コミカルなテンポがより心地よさを増し、悄然としたもの、予期せぬ設定がまた面白みを増していたように感じる。

芦沢央先生の展開に最後声を出して笑ってしまった。

にしてもバタークリームケーキが美味しそうだった。相変わらず食い意地が張っている己が可笑しい。

「対岸の彼女/角田光代」
他人と自分は違う。立場、置かれた環境、価値観、生活背景、辿ってきた人生、関わってきた人物、見聞した映像作品や文献、それぞれの要因があるから違う。他者や物事に衝突したり蟠りを抱えたり、何もかもうまく運んでいくという幻想を抱いていざ進むと「こんな筈じゃなかった」とヒステリーに陥り愚痴にまみれる、他者を貶めていく。人と会うことが嫌になるのはこのためか。
専業主婦から脱却した小夜子、小夜子をスカウトした社長の葵、その周りの人物たちを見てわかっているつもりでわかっていないと思い知ることが多々あると感じた。不思議な現象だなとも思う。

思い詰め自分を追い込み周囲のせいにして地団駄を踏むか、思い詰めることに気付いて達観して前に進んでいくか。気付くこと、気付くタイミングはいつなのだろう。早ければいいのか。遅くてもいいのか。尺度がないからこそ人は生きていくのであろうか。そんなことも思った矢先、人と会うことは年をとることだと気付いた小夜子にハッとする。

人と会わなければ思い詰めることに気付いて達観して前に進んでいくこと、気付くこともないのだと。嫌な思いをしたらそれなりの方法を身につけ実践することも人に会わねばわからない。反対にキモチイイ思いをしたり、光に触れた時の淡い気持ちに出会ったり、それまでの自分の概念を取り壊しアップデートしていくこと、時代の変化を知ることも人と出会うことの魅力のひとつだ。

先日拝読した酒井順子先生の「おばあさんの魂」にて知った小倉遊亀さんの言葉がある。

自分の作った観念の殻の中にとじこもって、他を排除して止まぬかたくなさを、老人というのだ。願わくば老人にはなりませんように。

精神的な意味の「年をとる」と「老化」は異なる。
社会的にとか、生きている間は等言えばそうだが、無意識に人と会うことを我々は望んでいるのではないだろうか。だから我々は人と会っていくのであろう。このようなことを思った。

対岸にいる葵とナナコの姿を見た小夜子に自分を重ねた人々は己を含めて多いのではないだろうか。読了後、青く澄んだ空の下にいたような気分になった。

森絵都先生の「単なるすれ違いの話ではない」という解説に首を大きく縦に振る。森絵都先生が自問される姿に己を自省する。会うことがなくなってしまっても現在の葵の心にある光について、その光に触れた小夜子について語られる森絵都先生にも「人と会うこと」「年をとること」を改めて振り返る1冊であった。

「魔女のスープ-残るは食欲-阿川佐和子」
今回もリズミカルな包丁の音、ジューッジューッと炒めるフライパンの音、鍋でぐつぐつと煮える音、パリパリッとレタスやキャベツを千切る音からたらっと醤油を垂らす音まで聞こえてくる。

楽屋のお弁当、肉屋のコロッケ、ゴルフ場を機に再発見したホットドッグの美味しさ、牡蠣の堪能の仕方、蕎麦は夜鰻は昼、夜の鰻も試してみたい、グッと堪えて残したステーキを朝に食べる至福、残りの刺身の味わい方、納豆について、質量不変の法則。佐和子さんの綴るレシピ、食の歴史、食べ方、食との出会いを観るたび、食べることは極上であると反芻し、作る楽しさ、己の口福がさらに大好きになる。同時に食いしん坊の魂が「ああっ!食べたいっ!」と叫ぶ。食べること、自分だけの口福があるってとっても幸せ!と。

お父様のレシピの書き方が佐和子さんそのもので思わず笑ってしまった。食べることがお好きな父と娘、微笑ましい。

チャーミングでリズミカルな文体は心も和み、さらに佐和子さんに魅入るのである。

「残るは食欲」に続き荒川良二先生の表紙は温かくかわいらしく、どこか懐かしげで食欲、創作欲がそそられる相乗効果があるのも魅力である。

「金箔のコウモリ/エドワード・ゴーリー 柴田元幸=訳」
順風満帆とは言えぬなか時代を象徴するバレリーナとなったモードだが単調で侘しく退屈な生活は変わらなかったところが虚しい。導入とラストはさすがエドワード・ゴーリーと思う。

読んでいる最中芦沢央先生の「カインは言わなかった」の過去に縋り、高みを望み、苦痛と激流に揉まれるバレエ団員たちの姿を思い出す。解説にて柴田元幸先生のこれは根性論を述べたり成長ストーリーではないという一文を見て膝を打つ。この2つの物語を通して華やかさと虚しさは表裏一体であるかもしれないと、ふと思った。

「まったき動物園/エドワード・ゴーリー 柴田元幸=訳」
同じアルファベット順であるが「ギャシュリークラムのちびっ子たち」のような居た堪れなさはない。不可解で気味悪く虚しいが気が滅入ることもない。どこかかわいらしい幻獣たち。幻獣たちの動きが人間くさいためなのか、一部除いた幻獣たちの背景がほぼ白が多いからなのか。どこか呆けた気分になる。柴田元幸先生の解説にそう思った理由が判明した気がした。

エドワード・ゴーリーの作品はメジャーなものしかまだ目を通していないのでこの後も楽しみである。

「またたび読書録/群ようこ」
群ようこ先生の書評と聞いて読まないわけがない。と手に取った。

それまでに見たもの、触れたもの、出会ったもの、生活観、人生観、お母様やご友人様とのやり取りを回想し出会った本と紐付け語られる姿とその内容に「ほほう」と頷く。
自分の気持ちを正直に、卑屈にならず悲観もせずスパッと語り、周囲を鋭くズバッと観察される群ようこ先生、その軽快痛烈な語り口はすいすい読みたくなってしまうのも魅力であると作品を拝読するたび感じる。

価値観、世界観のアップデート、兜の緒を締める姿にもまた心を打つ。

群ようこ先生も「ロッパの非食記」をお読みになっていたことに親近感を抱いた。三浦しをん先生は「猛烈に腹が減る本」、桐野夏生先生は「たくさん食べてゼイタク三昧だが虚しい」と語られ、群ようこ先生は「壮烈な食欲に唖然とするばかりで『おいしそう』と思えずお腹いっぱいになってくる」と語られていて、新たな感想を見れて面白かった。

「ののはな通信/三浦しをん」
少女たちの文通は、卑屈になること、悲観すること、他者を揶揄し糾弾し、野次馬根性を剥き出しにすること、他者に依存し期待すること、「違う」ということを認めたくなくて「ありえない」と一方的に批判することが傲慢で愚かで哀れな行為だということ、白黒つけることは精神も体も疲弊させること、そう思いつつもそれがいつの間にか根付いていること、フィルターをかけて見ればそれは(犯罪に発展しないことを大前提で)人の面白味であることだとつくづく思い知る。その反面、憧憬、溌剌さ、可憐さ、夢想、好奇心、相手を慕い敬う気持ちに溢れており、その眩しさが微笑ましくなる。

もちろん心の成長にも胸を打つ場面が多々ある。自分の若さを振り返るはな、諦めることも必要だと気付いたののに感心し、「社会で生きる」「これからの自分を生きる」を省みた。

ののにとってはなは「光」だった。「対岸の彼女」を拝読したばかりだったためか、「人と会うこと」「生きていくこと」について改めて考えるストーリーだった。

メールが登場すると手紙を書く機会が少なくなり、LINEの登場でよくも悪くも他者との距離が近くなり過ぎて誤解、諍い、同調圧力等が生じやすくなった。

文字は生き物だ。手紙を書くという行為はメール、LINEより書き手の心境、状況が伝わり易いと感じる。SNSが発達した現代でも手紙や葉書、年賀状のやり取りが失われないのは生きていることを実感したい、人に話したいからではないだろうか。そんなことを考えた。

10年前のあの震災のことがこの小説にも綴られていた。「女盛りは心配盛り」を拝読した時に思ったことは未曾有の恐怖と混乱が風化してしまうのが1番恐ろしいのかもしれないだった。
数々の震災、この数年の情勢、そして76年前の悲惨な世界。この小説は少女たちの行く末もこれらに含まれる。
拙いことしか言えぬのが歯痒いが、忘れてはならないが常に心に留めておくことも違う気がする。
それでの日常が破壊され世界が激変する。あるとも言えるし無いとも言える。
だからこそ我々は生きていくのかもしれないと思った。

「いつから、中年?/酒井順子」
小中学生の頃は高校生以上は大人に思えた。高校生になると高校生ってまだまだ子どもなんだなあ、20歳以上は大人だろうと思った。いざ20歳過ぎると……全然オトナじゃない。

そりゃ良識、オトナの弁えはそれなりに身に付いてきて「まあ、こんなとこやな」と達観するようになっただろうと信じたいけど、まだまだなことは日々痛感する。己の社会的立場や力量はビギナーズのままではないし、期待されなくて当たり前であるのは重々承知。元々ないハングリー精神は既に乾涸びている。若者特有の猪突猛進に疲れ果てたので本来の面倒くさがりとのんびり過ごせるための試行錯誤を優先するようになった。

一方で気持ちのハリは実年齢より下だ。「しない」を選別し時間を捻出してウルトラマン、ライブ、読書を今日まで満喫し、トレーニングという新たな趣味を得たりもしている。角田光代先生曰くご自身の精神年齢は27歳で止まっていると仰っていたのを見て、もしかすると気持ちのハリというのは永遠に実年齢より若いままなのでは?

「いつから、中年?」このタイトルを目にしたとき長年の疑問の新たな視点が判るような気がしたこと、酒井順子先生が語ると知ったら読まずにはいられないので手に取る。

「甲子園球児がいつの間にか同世代になったり、横綱が年下になったりする場面は「自分が歳をとった」という事実と「社会全体の幼稚化」という動きを教えてくれる。」という一文に少子化高齢化社会は精神的な影響ともたらすことを思い知る。

「歳相応の外見や度量は、相当な努力と根性をもたない限り身につけることはできない。」という一文に耳が痛くなる。そりゃ達観どころか、オトナではないわけだ。

若い世代、同年代、上の世代、政治、行列、OL化する日本男児、スポーツ業界、雑誌、旅行先での出来事、アーティスト、映画などをユーモラスに観察、分析し、酒井節で鮮やかに語られており爽快である。

読んでいくにつれて「四五歳成人説」となるかもしれない。と綴られる酒井順子先生に「なるほど」となる。連載当時の安倍内閣の成立と崩壊にを見て次のように思ったと綴られていた。

「安倍さんの辞め方を見ていると、彼も自分達と同様、「大人になる覚悟ができていない大人」なのだろうなぁ、という気がしたものです。「あちら側へ」への未練は、首相になるような人ですらなかなか断ち切ることができないらしいことを見ると、自分が惑い続けるのも無理ないのかも……。四十代の道を歩くことにやっと慣れてきた私としては、そんなことを思っているのです。」

覚悟は必要である一方でそもそもお聖さん始め人生の達人と呼ばれる方々と今すぐ並びたいと思うことが傲慢だよなと思う。だからその都度兜の緒を締め、これからを生きていくのだなあと思うのである。

「泡沫日記」にてEXILEコンサート参戦して「彼らはいい営業マンになるでしょう」的なことを語られる酒井順子先生の視点が新鮮でユーモラスで思わず笑ったことがあった。
今回もそれがあった。矢沢英吉さんのライブにて酒井順子先生は次のように感じたそうである。

武道館中に矢沢タオルが舞う様子は、圧巻。タオル生産量日本一の今治市の人が見たら、感涙にむせぶのではないかという光景です。

声に出して笑ってしまった。この一文を始め酒井順子先生にますます魅入りたくなる。

「おばあさんの魂」に続き、オトナになることに兜の緒を締めることで「年をとる」楽しさを味わえるのかもしれないとも思うのであった。

「カフーを待ちわびて/原田マハ」
寂しくて切ないけれど、温かく懐かしい気持ちになった。
帰る場所があること、待っている人がいることはなんて嬉しいことなのだろう。
自分の大事な場所に、大切な人に会いたくなるストーリーだった。

「ウルトラマンティガ第9話〜第16話」
・この辺りの話は録画してもらったテープが擦り切れるほど何度も観ていたためか強く印象に残っている。スリルとアクションに興奮する少年少女心の楽しみ方もあれば意味がわかると背筋が粟立つ、心臓が凍り付くといった楽しみ方もあるのだなと感心する

・第9話「サキという少女は、緊急脱出用ボードで基地を抜け出して行った」あまりにも突拍子ないので「ええっ…」と思わず呟く一方、そりゃさっさと出ていくに限るよなと同感する。

・マユミちゃん「似ていたら私生きていけない」辛辣で笑ってしまった。

・ダイゴと少女の一期一会、マキーナと少女の信頼関係に怪獣と異星人と地球人が接することになんだかしんみりしたものを感じる。

・第10話のハルキ少年の勇気に涙が出そうになり、ラストシーンで見せた精神の良さならびに侠気は子どもどころか大人でさえ稀有だぞと胸を打つ。

・ガギに対して「こんな凶悪なやつに繁殖されたらたまったもんじゃないわ」とぴしゃりと言い放つイルマ隊長に痺れる。

・今観るとガギは蔦怪獣バサラからひらめきを得たのであろうかと思う。

・ガキの触手に巻かれるティガを観てエヴァンゲリオンを見た壇蜜女史のように「ティガって腰が細いなあ」と呟いていた。

・第11話サナダ局員はいわゆる「一番病」であり、刷り込み故の承認不安と見受けた。ホリイ隊員の「誰にでも心の闇はあるわなあ」「誰とも競争せんでええんやぞ!」という台詞とガッツ隊員たちの表情に胸に刺さるものがあった。

・カップヌードルを見るとホリイ隊員を思い出すのはこの第11話だったなあと思う。よく見るとキムチヌードル。ホリイ隊員は辛党なのか、それともカップヌードルはそのフレーバーが好きなのか、偶然なのか。

・サヤカさんのホリイ隊員の評価内容の容赦なさに思わず笑ってしまう。

・第12話のティガは現配信時点で人間味溢れたリアクションをしているように見える。

・レナ隊員を食事に誘う局員はセクハラ職員、怪獣レイロンスはティガにじゃれついているようにも見えるし悪意のある無邪気さでいたぶっているように見え後者はパワハラモラハラ常習職員という企業の歪みと社会の縮図を垣間見た気がしたというこじつけをしてしまう。

・レナ隊員の用意周到さが面白い。

・第13話のティガがレイピーク星人雑兵たちを挑発?誘導?する図、レイピーク星人雑兵たちの動き、宇宙船にしがみついたティガを振り払う宇宙船の動きに「おいおい」と言いたくなるのは加齢だろうかと思う。

・シンジョウ隊員がシャーロックでレイピーク星人を追跡した際ダイゴ隊員はどうやって本部に戻ったのだろう。電車だろうか、タクシーであろうかと細かいことが気になり、あの服装で公共交通機関の使用はなんだかシュールだなと思ったことに加齢を感づる。

・レイピーク星人ボスのダミ声はシュールでもありそのシュールさがより不気味なものを感じさせている気もする。

・ホリイ隊員の「バイク便到着!」このユーモアが小気味良いのとキテレツばりの発明力に感嘆し、バリアカートリッジを説明するさまのドラえもんぶりがまた面白い。

・突如現れたティガに茫然とするムナカタ副隊長とホリイ隊員はいつ観ても笑ってしまう。

・ティガが外に駆け出している場面が何故かじわじわとくる。

・偶然と言われればその通りであり勘繰っているのは承知だが、様々な被検体を集める(呼び寄せる)ためにシンイチ少年の携帯、シンジョウ隊員のPDIを奪わなかったとなると悍ましい。レイピーク星人の予測力不足、リサーチ不足(ホリイ隊員の発明力とティガ)も敗因だろうなあとも思う。

・心配する親心もあるだろうけど一人前の人としてシンジョウ隊員はシンイチ少年にPDIのアクセス方法を教えたのかもしれないと思うとまた胸が熱くなる。

・第14話放送当初、ルシアは敵対してガッツを抜け出したと思っていたが命の恩人を巻き込むわけにはいかないこと、自分1人が助かるわけにはいかないから抜け出したのかという推測が浮かび、歳月の経過を感じる。

・ルシアたちって美男美女だなあと見惚れるのも歳月の経過を感じる。

・ムザン星人の変形にホリイ隊員と同じ反応をした。

・ムザン星人が振り回されるがじわじわときた。

・守りきれないこともある。ウルトラマンシリーズで多く目にする事柄に度々胸を打つ。「罪滅ぼしだ」ときっぱり言うムナカタ副隊長の廉直さよ。

・ルシアはダイゴ隊員がティガだと判っていたようにも見えた。

・第15話にてロケットペンダントに懐かしさが溢れる。余談だがロケットペンダントを見るとそれをネタにした爆チュー問題のコントと何話だが忘れたがヤスミ隊員と大正時代からタイムスリップしてきた女の子との交流を思い出す。

・ホリイ隊員「そないな理屈はどうでもええか」この台詞はタクマさんのマユミちゃんへの想い、2人の信頼と繋がりの深さについて全てを語っているように感じる。

・第16話の盗人3人は死後、阿鼻地獄の身洋処行きとなるのだろうか(鬼灯の冷徹で得た豆知識がここに繋がるとは思いもよらず。感慨深いものがある。)

・シンジョウ隊員「俺も苦手だー!」イルマ隊長「いいから早くレポート仕上げて」「はあい」面白い。

・押さなくてもいいボタンを押してヤスミ隊員に「ちょっと!」と叩かれるシンジョウ隊員のやりとりが可笑しい。

・16話は昔話特有のコミカルさがあって小気味よい。

・中華そば、なるとを見ると第16話を彷彿とさせていたことを思い出す。ラーメンライスはやめたほうがいいぞと要らぬ節介を呟いていたのでまたもや加齢を感じた。

・錦田景竜の達観ぶりに感心する。

・ダイゴ隊員「何落ち着いちゃってんだこの人」若いなあ。

・15話に続き左手の様子を見るティガにふふっとなる。

・いつ見てもレナ隊員の果敢さは惚れ惚れする。ダイゴによせる恋心、それに気付かないダイゴ隊員にやきもきするのも微笑ましい。

・シンジョウ隊員の兄貴肌、父のような心、少し抜けたところが「おじさん」で親しみが湧く。シンイチ少年が「おじさん」と呼びたくなるのも同感である。細かいことだが叔父さん、伯父さん。どっちなのだろう。マユミちゃんのことは「マユミちゃん」と呼んでいるのだろうかとも思う。

・ホリイ隊員のユーモアさ、テンポの良さ、研究心探究心の深さがムードメーカーっぷりをあげているのだろう。明晰さに嫌味がないのはそのためであり関西弁がよりムードメーカーぶりをあげているように感じる。

・ムナカタ副隊長の機敏な指示対応もあれば熟慮断行、はたまたユニークな部分(第8話にてお化けになりきっていたこと)のギャップが良い。

・ダイゴ隊員の勇往邁進、あどけなさ、思い遣り、レナ隊員の想いに気付かぬ鈍さがまさに若さ、そして昭和の純朴さが滲み出ていて眩しい。

・エキスパートなヤスミ隊員に好感があるのは素朴な性質と垢抜けない雰囲気があるからであろう。

・深慮遠謀、冷静沈着、下劣卑劣凶悪外道極まりない物事や怪獣、宇宙人、人物は言語道断である。一方で隊員たちへの心遣い、温かさ、ユーモアさがイルマ隊長の格好良さであり信頼の厚さであると感じる。とどのつまりイルマ隊長は痺れるほど格好良い。

・このガッツ隊員の個性豊かさが連帯感、結束力を生み出しているのであろうと考える。

・精神のよい市民たち、改心する市民たち、マキーナと少女、ルシアたち、この後の配信で登場するデバンといった怪獣たち、スタンデル星人のレドル、アダムとイヴといった宇宙人たちの個性豊かさもまた良き哉。

「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち」

何度観てもイルマ隊長が最前線に出た時は胸が高鳴り、ティガ登場の際は歓喜の悲鳴をあげそうになり、ガッツメンバー再集結時は涙ぐむ。時が経つとツッコみたくなるところもあれば、毎朝のラジオでお馴染みだった斉藤リサさんが出演されていたことに驚嘆し、杉本彩さんを見ると鬼灯の冷徹の唐瓜が出てきてしまい笑ってしまうが、公開当時映画館で観た時の感動は今でも思い出し、ティガがより好きになる映画でもある。

「ラビリンス/ORANGE RANGE」
大人の世界に居ながらも少年の心を忘れないというのを感じる。

歌詞と曲調で別次元に飛び、怪しげなネオンと不埒なリズムに包まれる夜のラビリンスにいるように錯覚する。黒い夜のラビリンスに迷い込んだのは少年少女の心を持った大人たち。最大級な胸騒ぎの基は果たして不安、焦燥それとも高揚か。奇想天外摩訶不思議なラビリンスでどう振る舞うのも己次第。それはすべてを自分で委ねることができる「ムテキステキ魅力的」なオトナの特権だ。

遊び心を忘れないORANGE RANGEが作り出すラビリンスに進んで迷い込み、理想をリセットし、サイケな気分で踊ったら、〆にサイを振って目に色を塗りたくなった。

今楽曲はタツノコプロ作成のTVアニメ「MUTEKING THE Dancing HERO」オープニングテーマということだ。名前は勿論伏せるが信頼を寄せているとある方(当人様気付いてしまったら許可も取らずに大変申し訳ありません)が大好きなとある作品を作っているのがタツノコプロでCG担当でとても嬉しいという感想を目にした。

このような好きなものの繋がり、そしてその繋がりに嬉しさを語る人々の姿を目にするのはとても幸せであると改めて感じる。その瞬間に立ち会えたのでORANGE RANGEに感謝である。

ゴルフのスウィングのような音が入っているのもまた好ましい。

「 あの世のANTHEM 〜天国と地獄〜/ORANGE RANGE」
「ラビリンス」が主観であれば「あの世のANTHEM 〜天国と地獄〜」は客観のように感じた。

物事の見解は日々常々変わる。そのことにやきもきもする一方どっちに転んでも天国でもあり地獄でもあることを認識する。

主観のようだけど機械的な楽曲と無機質に聴こえる声音が客観でもあるように感じる。

聴き終えるとどこか呆けた気分になっていた。

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