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判決は如何に

哀愁と寂寥感に溢れる本に会うことが続き物寂しくなっていた頃、「鬼灯の冷徹」が読みたくなった。

2年ほど前に連載終了と聞いた時は動揺、寂しさはなく「ああ。そうなのか」だった。始まりがあれば終わりがある。終わりがあるから始まりがあるという心情であった。単行本派であること、少しずつじっくり味わいたい気持ちとすぐに読まなくてもいいかあという気持ちで2年が過ぎていた(2年過ぎていたことにこの文章を書いていていて気付く)

「鬼灯の冷徹」との出会いは9年ほど前だろうか。本屋さんの試し読みにて1話の『ソ●トバンク!!』の台詞で吹き出しそうになり即座に購入した。

その当時は「なるほどなあ」「あるある!!」だったり特に何とも思わず「ふーん」と思うことが主であったが、今改めて拝読するといわゆるアフォリズムに満ち溢れているように感じた。

『相手を下げて自分を上げるのはコンプレックスが強い』『職場で怖い人が家庭でも怖いとは限らない』『周囲の人は己の鏡』を始めとするアフォリズムが当時よりも身に沁みていることもあれば、鬼灯は気に入らないから白擇を懲らしめると見たまんまに捉えていたが今読み返すと「鬼灯は白擇が羨ましいのか」と考察するようになっていたことも、当時は「そんなもんなのか」と思った第90話「恨みつらみあってこそ」のイザナミノミコト様の見解に時が経った今すとんと落ちていて年を取っているなあと感慨深くなった。

『死後のジャッチをお楽しみに!』という言葉を見た時、今日までの人生について良し悪しを聞かれたことを思い出す。個人的には「まあ、こんなとこやなあ」というお聖さんのお言葉である。忌む時期はあるがたらればに縋って腐る暇があれば今後気持ちよく生きることに専念したいのと、その時期ならではの愉しさ良さもあったのと、苦労して少しずつ佳き方向に行きつつある今を手に入れているのである。今後予期せぬ物事や苦労が待ち構えているからこそ「まあ、こんなとこやな」と日々思う。

「自分だけは大丈夫と思わない」という群ようこ先生のアフォリズムも留めている。杞憂はしないがいざ調子に乗って落とし穴に落ちたり、未曾有の出来事に遭った時に「どうしてこんな」と悲観的になるより全然いいのであろう。

さて、言うまでもなく地獄を題材としたアニメ、絵本、映画は数多い。

『じごおくのそうべえ』『おじゃる丸』『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』『やじさんきたさん』等々。鬼灯の冷徹はまた新たな地獄、穂村弘先生で言うならば神の視点に出会えた。

どの地獄に逝くのであろうかはたまた未知なる地獄に逝くのであろうか。興味本位で思うと碌な目に合わぬので思わぬようにしたい一方、地獄に落ちても不思議でないよなあとも思う(まあ落ちたら落ちたらで嘆いていると思う)

人の道を外さず他者を貶めず吝嗇な欲に駆られず生きたい一方、気持ちのいい毒気をもって生きていきたい所存である。

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