[掌編]球体関節人形
その少女は、西側の昇降口から入ってすぐの階段を上った、三階にある美術室にいる。
肌は透き通るように白く滑らかで、栗色のまっすぐな髪は肩より少し長い。一直線に切り揃えられた前髪の下にある硝子の瞳は青みがかかった深い灰色で、レースのようにしなやかな、長い睫に縁取られていた。
僅かに開いた唇は小さく、赤いバラの花びらを思わせる。生徒たちから時代遅れだと評判の悪い制服も、彼女にはとてもよく似合っていた。
僕はそっと彼女の隣に座り、窓から見える夕陽を眺めた。
うっすらと微笑む彼女の唇からは、鳥のさえずりに似た、微かなため息だけが聞こえる。それだけでもう十分で、僕たちのあいだに言葉はいらない。夕陽に照らされた彼女の横顔は、あどけない少女にも、艶やかな大人の女性にも見えた。
そう、彼女は非の打ちどころがなく美しかった。でもこの学校で僕のほかに、彼女に本気で恋をしている生徒がたくさんいることを知っている。
それは男子に限らない。彼女の魅力は、性別の枠を易々と越える。彼女に会うため、美術部の部活動も終了した夜遅くに、ひっそりと美術室を訪れる者が後を絶たない。男子生徒も、女子生徒も。
しかし彼女の前に立つと、みな体の中心を鋭い釘で打たれたように立ちすくんだ。彼女の体は目に見えない神聖なヴェールに包まれ、誰ひとり、その手に触れることさえできなかった。もちろん、僕も。
そんな彼女に、ある日不幸が訪れた。
それは、避けることのできない事故だった。古い大きなイーゼルが突然倒れ、それに驚き飛び退いた女子生徒の絵筆が、彼女の顔に刺さったのだ。
小さな悲鳴みたいな音がして、右目の下から涙を流したような亀裂が入る。彼女の無残な姿を見た女子生徒は泣き崩れ、友人たちは口々に慰めた。「気にしなくていいわよ。所詮彼女は人形なのだから」と。
僕は横でそれを見て、まるで自分も同じ傷を負ったような痛みを覚えた。しかし彼女は気丈にも、いつもと変わらぬ微笑みを湛えたままだった。
*
彼女が傷を負ってから、僕は幾度も胸騒ぎを覚えた。
それは誰かが彼女に対し、以前とは違う感情を持っていることがわかったからだ。もう完璧ではなくなった彼女に対し、悲しみや絶望のほか、ほんの僅かに怒りや憎しみを抱いている勝手な人間がどこかにいる。
そして僕の嫌な予感は、やがて現実のこととなった。
それはすっかり夜が更けて、警備員さえ居眠りを始める頃。俄に美術室のドアが開かれると、眼鏡を掛けた生徒らしい男が、ペンライトを片手にひっそりとなかへ入って来た。
僕はひと目で、彼が美術部の部長であることを思い出した。彼は彼女の前に立ち、ヴェールを破って頬に触れ、彼女の唇に口づけると、次の瞬間、彼女を床へと叩きのめした。
美術室にはすさまじい音が響き渡り、僕は咄嗟に彼女を助けることもできず、声を上げることもできなかった。何より次に、僕にも恐ろしいほどの衝撃が与えられたのだ。
そのとき初めて、常に誰よりも彼女の近くにいた僕に、彼が激しく嫉妬していたことを悟った。
冷たい床に転がった翡翠の眼から、粉々に砕けた彼女の体と、同じように砕け散った僕の体が混じり合い、境目もなく横たわっているのが見えた。
彼が足早に立ち去ると、暗闇と静寂だけが残された。僕は薄れる意識のなかで、朝になったら彼女と共に、ただの廃棄物として葬られるということに、不思議な幸福を感じていた。
【この小説はエブリスタにも掲載しています】