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「コロナと共にある今、どう生きればいいですか?」 恐山の禅僧 南直哉さんに伺いました(3/4)


■「死ぬかもしれない自分」にとって、なお大切なことを考える


― うーん…。ですが正直な話、人は誰でも生き延びたいと思うものではないでしょうか?

おっしゃるように、生き延びることを考えるのは当然です。
でも、そう考えるのは、死ぬからでしょう?

当然だが、根本的に何かを考え直し、自分や社会のあり方を変えたいと思うのであれば、考えるべきなのは、生き延びること「以前」です。

生きることを考える前に、逆に「死ぬかもしれない」と、自覚できるかどうか。

生きることを前提に考えるのか。
死ぬということを前提に考えるのか。

どちらを前提にするかで、考え方はまるで違ってきます。
少なくとも、何を大切にして生きたいのか、その優先順位が変わる。

自分が死ぬ前提でものを考えたとき、なお、「損か得か」を基準にして生きたいのか。取引や競争の中にいたいのかどうかということです。

少なくとも、自分にとっての「損得」や「競争」の意味と方法を、一度立ち止まって見直すのかどうか、それです。


―  死の当事者である自分が、何を優先して生きるのかを、まず考えるということですか?

そう。自分が「何をやりたいか」ではなく、「何をやるべき」か。
それを考えるべきだと思いますね。

死ぬかも知れない自分にとって、なお大切なことは何か。
自分の死によって、すべて失われるかもしれないが、それでも、大事にしたいものは何かを考える。

そういうアプローチは、ありだと思います。

「べき」を見つける際に、とても大事なのが、その「べき」ですら、いずれ失われると知ることです。

それも全面的に失われる可能性がある。死によって。
そこに、気がつかなければいけません。
死ぬとは、最も価値のあるものが失われるということですから。

すべては失われるという可能性があってなお、それを追求するのかどうか。そこまで、考える必要があるでしょう。

大切なものは、いずれ失われるものなんです。
それをイメージできるのかどうかは、想像力によると思います。

失われるとわかって、なおやるべきだと思ったことをやる。
(死を前提に考えた時に問われるのは、)その覚悟ですよ。

死があるから、我々には「価値がある」と思えるものがある。
そして、価値があるものは、失われる。

自分が、自身の命を感じたり、(生きることの)意味や価値について考えられたりするのは、自分が死ぬからだ。そう気づけば、「疫病後」の話も、それなりに語り方が変わると思います。


まあ、そう言っても、普通の人が、こんなふうに死を意識の中に置くことは、めったにないでしょう。

だって、自分が死の当事者だなんてことをずっと考えてたら暮らしていけないし、仕事なんでてきない。

しかし今回は、人類規模で、それに気づく可能性がある出来事が起きた。
今はみんなが無力な状態にある。ウイルスから「逃げ隠れ」する毎日でしょう?

この状況の中で、考えるべきことがあるのなら、私自身は、これだと思います。

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■死を光源にすれば、「本当に大切にすべきこと」が照らし出される


― 今回は、皆がそれに気づく機会になっていると?

その機会にはなっているでしょう。
しかし、気づく人は多くはないと思いますよ。
多くの人がそうだったら、世の中は簡単に変わるでしょう。

私が話していることは特殊な問題の捉え方で、大勢の人に勧めるべきではないかもしれない。

念のために言えば、死というものが何かは、誰にもわからないです。
死とは何かに関しては、誰もわからない。

この世に「死んだ人」はいないし、死を経験した人もいないのだから。
臨死体験をしたと言う人もいるが、その人だって、生きているわけでしょう?

だから我々にとって、死はいつまで経っても「観念」でしかない。
しかも、この観念である死は、非常に特殊なんです。

なぜかというと、それが何かは全くわからないが、誰もが必ず死ぬと確信しているんですから。
このような死の観念を、自分の中で再発見できるかどうか。
これが、全員が当事者である今、問われていると思います。

― 今まで、死の当事者であると発見せずに済んだ時代が、続いてきたということでしょうか。

時代は関係ありません。
自分が死の当事者だなんてことを、明瞭に自覚する機会は
そうはありません。

大病をするとか、あるいは、大事故に遭ったり、大切な人間が亡くなったり、そんな深刻な体験でもない限り、だれもこんなことは思わないでしょう。

私は物心ついた頃から死を意識し続けてきたので、ずっとこの視点で物事を見てきたわけです。

だから、今さらコロナに対する不安はないが、今回の報道に触れたとき、冒頭で話したように、東日本大震災との違いについて考えたわけです。
ついでにいえば、その時、私は差別と買いだめが始まると、すぐに思いました。

非常時になると、自分だけは生きようと無意識的に思う。
生きることの当事者は自分ですから、どうしたって利己的になるんです。
しかし、自分が死ぬと自覚した人間は、利己的にはなれない。
結局は失われてしまうのだし、どんなに利己的になったって無駄だと、気づくからです。

ならば、今まで価値があると自分で思い込んでいたものや意味があると思っていたことを、一回、平場から見直してみればよいでしょう。

黒い物は、背景を白にするとはっきりわかるし、
逆もまたしかりでしょう。

死の当事者だという自覚をもってみれば、
今まで「価値がある」とか「意味がある」と思っていたものが
どんなものか、一回くっきり見える時がある。

その他は、どうだっていいことです。

私が、生きるか死ぬか以外は大したことではないというのは、
そういうことです。

死を光源にすれば、これはどうでもいいこと、
これはどうでもよくないことというのが、照らし出されてくる
はずです。

(4につづく)