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発達障害の私がカウンセリングを受けることにした理由

なにか考えるとすぐさまそれを否定したり訝しがったり批判したり嘲笑ったりする自分が出てくる。
その出てきた自分をまた否定したり訝しがったり批判したり嘲笑ったりする自分が出てくる。
なにかを確定させようとしてもその自分に対して無限に生まれてくる疑念の声(自分の声)に、自分の全ての感情は偽物なんじゃないかと思えてくる。
嵐のような否定の声に耳を塞ぎたくて
衝動的に一時忘れさせてくれるような感覚を伴う自罰的行動をとる。
これが私の問題行動です。( 具体的には書きません。えぐいから笑)

やめた方がいいのは分かってるのにやめられないのは、続けることにメリットがあるから。
人はどんなに自分を傷つけるような行動でも必ず何かしらのメリットがあるからやる。それが余計に自分の偽物感を増大させてる。小賢しい。計算高い。
苦しいと言いながら変わる気がないから変わらないのに、それでも私はカウンセリング(認知行動療法)を受けることを選んだ。何故か。

その話を書こうと思いつつ書けずにいたけど、先日観た100分de名著中井久夫第2回が衝撃的で、書きたい衝動が沸き起こったのでそれに任せて書きます(相変わらず前置きが長い)

何か考えた時、それを考えた自分に対する疑念の声(自分の声)はなぜ起きるのか。
これはもしかしたら発達障害自体の特徴ではなく、発達障害を持って生まれたことにより社会と自分の間に生じた2次障害なのかもしれないと思っている。

物心ついた時からずっと世間の価値観と自分の価値観に大きく隔たりがあった。
強烈な「こうあるべき」という圧力を受けまくって育った。
家でも学校でも、自分が本当に思っていることは多数の常識の前には異質で矯正されるべきものだった。

でも大多数の声に完全に屈して、
まるで生まれ変わったように、まるで別の人間のように、生きることも出来なかった。  
私の性質は厄介なことにすぐ折れてしまうようなか弱いものではなくて、自分でも飼い慣らすことの出来ない持て余すものだった。
ではそれに対し私はどうするのかというと、世間の「こうあるべき」と同じ声を自分で自分に発して激しく自分を叱責する。
これが「良心の強迫」です。この言葉は僧侶の宮岳文隆さんに教えて頂きました。

ところがですよ
「こうあるべき」は「人間として当然あるべき姿」という不変のものだと私は思っていたのに、しかし、中井久夫先生によると違うらしい。
今現在では異質だと扱われるような性質が逆に重宝される時代もあったのではないかと。
例えば統合失調症のかたの敏感に未来を予測するような性質は狩猟時代に重宝されたのではないかという、大胆な仮説を唱えた。

だとしたら、単なる時代の価値観の話という事になる。
私が子ども時代を過ごした時代にたまたま多数の人間・世相に優先されていたことが、私の性質を少数派にしただけのことだというわけだ。
「倫理的少数派」この言葉に衝撃を受けた。なるほどしっくりくる。倫理は不変では無い。

そして二宮金次郎のような勤勉さと工夫、現状を維持するための「立て直し力」が持て囃されたのは高度経済成長期ですでに終わっているのではないか、と。
指南役の精神科医・齋藤先生はおっしゃる。
発達障害の人の持つ気質が重宝される時代が来ていると。

話を戻す。
ここからは先日はじめてカウンセリングを受けた時に臨床心理士に話したことでもある。
自分の認知が歪んでることは分かっている。だけど今のままになにかしらのメリットがあるから私は変わらないのです。同じ思考の轍を通り続ける。
ではなぜ今日カウンセリングに来たのか。それは長男のためだと。

その話をするには1年前、当時小6の長男に起きた出来事の話からしなくてはいけない。
なお、長男は私と同じくADHD+LDである。

長男は5年生の時、クラスの女子2人からからかわれたり後ろからペットボトルを投げられたりして数日耐えたらしいのだが、我慢できなくてやり返したら女子が泣き出した。
泣いている女子を見て当時の担任が長男を責めた。
その時は長男の友達が庇ってくれたそうだ。
「今彼がやり返したのは我慢の限界だからだ。彼はいやがらせされてもずっと耐えていたんだ」と。
それを聞いた担任は今度は女子2人に事実なのかと聞いた。
1人は認めて謝ったが、1人は「忘れた」と言ったそうだ。

この「忘れた」と言われたことに、その出来事から1年経っても長男は苦しんでいた。
事情があったのに頭ごなしに自分だけを責めた当時の担任への不信感と、
本当に嫌な思いをして傷ついたのに、嫌なことをしてきた相手にあっさり「そんなことは忘れた」の一言で済まされたという理不尽さ。
納得できる答えが得られなかった悲しさと怒り。

そして、ここからは6年担任から当時聞いた話。
ある日長男は仲の良い女子と話していた。その中でたまたま例の「忘れた」と言った女子の話題が出て、それを引き金に1年前に嫌だったことがフラッシュバック、その後教室の隅でその女子に対する恨み言をずっとブツブツつぶやいていたそうだ。
その様子を知った担任が「それは貴方の評判を傷つけることだ。やめたほうがいい。」と諌めたら、なんと教室から逃走したらしい。
担任が追いかけたら長男はトイレに篭っていた。
泣きながら「自分でもどうしていいか分からないんだ」と言ったのだと。

私はその話を聞いて涙が止まらなかった。
私は長男本人からは、そんなことがあったという話は聞いてなかった。
私も学校での出来事を親に言えなかった。
ただでも不出来で親を悲しませているのに、更に学校でも情けない目にあっているだなんて。
親が知ったら余計に悲しませる。そんなことになるのだけは嫌だった。

長男が私に言わなかった理由の本当のところは分からないが、自分なりに一生懸命暮らしていても忘れ物が多かったり不真面目に見えたり、からかったりバカにするやつはいるし、裁かれたりもする。

そんな悲しみや怒り、自分に対するふがいなさは何年も心に残っていて、突然蘇ってくる。
発達障害を持つ者は記憶の仕方が独特らしく、まるで目の前で再びそれが起こってるかのように鮮やかにフラッシュバックするし、その時感じた強烈な感情もまた、ものすごく生々しく蘇る。

その時とても1人で身の内に抱えることが出来ないから、長男はブツブツ言葉にすることでなんとか解消してたのだ。それを担任に諌められた。
担任の言ったことは正論だ。正論だがどうすることも出来ない。だから教室から飛び出した。
それは私がどうすることも出来なくて衝動的に自罰する行為を、諌められて取り上げられるのと同じことなんだ。
病院で自罰的行動について、PSW(精神保健福祉士)は私に言ってくれた。
「それはへんてこかもしれないけど貴方が自分で編み出した治療法です。それをするから生きてこられたのにダメだと取り上げることなんて出来ない」

私は長男の気持ちが痛いほど分かるのだ。
分かるが故に冷静でいられないし、長男の姿が自分の辛かった過去の出来事をフラッシュバックさせる原因にもなる。同族嫌悪もある。
学校で嫌だったことを延々と愚痴られると、私は親にそんなこと言えなかった、という気持ちが沸き起こる。

そしてあまりに長男に自分を重ねてしまうから不安定になって、その不安定さをなんとかしたい、つまり長男をコントロールしたくなる。
無論、同じ苦しみを味わって欲しくないという気持ちもある。
同じかどうかなんて分からないのに。自分に起きた経験とシンクロさせてしまう。
そしてコントロールしようとするやり方には自分がやられてきたものが必ず混じる。
学校で保育の勉強もした。児童心理学もやった。子育てにおけるいわゆる模範的回答を知っていたとしても、自分がかつて言われてきたことを言ってしまう。
自分がコントロールされてきたように、
長男を世間の声で以てコントロールしようとしてしまうのだ。
「普通はそんなことしない」
「なんで人を待たせておいて平気なんだ」
「なんで約束が守れないんだ」
「情けない」
全部私が言われてきたことだ。

私も長男も本来はカイロスで生きている。
本当はとても自由な精神世界を持っているのです。
でも私はもうカイロスで生きることは出来ない。
左利きなのに無理やり右利きにされてもう左利きだけだった頃には戻れないような、そういう大人だ。
本当に自由に描けるのは左手なのに、でももう左でも思うように描けない。これが私を苦しめている。
のびのび左で描いてる時代にはもう戻れない。でも右で描くことが、最初から右利きだった人と同じくらい得意になることもない。
良いところになりえる可能性を潰しても結局世間の価値観でいう人並みとか普通になれなかった。

長男が人を待たせても平気なように見える。苦しい。
世間様に迷惑をかけているかもしれない我が子を見るのが、苦しい。
私はもうカイロスで生きることは出来ない。

だけど長男は違う。長男の世界の概念をぶっ潰さなくても、生きていける道はまだいくらでもある。
今書いてることは100分de名著を見て感じたことと混じってるけど、先日カウンセリングで心理士に話したこともつまりそれだった。
だからテレビ見てて驚いた。自分が考えていたこと、今の状況、思いきりシンクロしたから。

私が長男を育てるとね、長男を多数決の価値観に結局引きずり込むような気がするんです。
何度も書きますが、自分が自分の持つ性質を矯正されて生きてきてこんなことになってて、苦しいのになかなかその轍から抜けられないのは、現状が私にとってなにかしらのメリットがあるからだ。それは分かってる。
自分が自分のために変わらないのは、それは仕方の無いことです。
けれど長男の枷になるのだけはどうしても避けたい。

正直、私が育てない方が良いのでは無いかとまで考えたこともある。
でも長男はそんなこと望んでないでしょ。
あいつ私のこと大好きだもんさ。子どもの親に向ける愛ってすごいよね(涙

私も長男も倫理的少数派です。でもそれは「今」の時代の倫理にとってマイノリティなだけ。
たぶん時代は大きく変わる。なのに長男はもうすでに自分の発達障害は欠点にしかなり得ないと思っている。多分そうじゃない。そう思わせて申し訳ない。
こんなに良心の強迫に苦しむのは私の世代で終わりにしたいです。

そのために私はカウンセリングを受けようと決めたのでした。

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