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してくれなくても、見えていないだけで、それは悪意じゃないかも。

昨日のナスの味噌汁が、茶碗に一杯あるかないかくらい鍋に残っている。

炊飯器の性能があまりよくなくて、いつも食べ切る最後には、少し固まってしまうご飯を、いつか雑炊にしようと思ってラップにくるんで凍らせておいたひとくち大のご飯の残りが冷凍庫にある。
味噌汁の鍋へそのカチカチご飯を投入。

次に冷蔵庫をのぞくと、消しゴムより小さいかけらのどこにも使えない情けない量のバターがある。これも鍋へイン。

そして、汁気を吸ってカチカチコチコチだった米が柔らかくグツグツと煮えたころ、最後にスライスチーズを入れる。

チーズがほどよく溶けたら、まるでリゾットのような味噌汁雑炊の出来上がり。
まぁこれが異常なうまさだ。 味噌とバターが合うことはご存知だろうか。そこにチーズを入れたらもう濃厚なリゾット。

残り物には貧相なイメージがあるが、わたしは昼間、残り物で作る、この創作雑炊が大好きだ。

カレーの残り汁でつくるカレー雑炊もいける。
残り物のカレーを水で少しのばして、またいつの日かのカチカチになってそのままでは食べられないから雑炊ように冷蔵庫に放り込んでおいた米を入れる。

いい具合に汁を吸って柔らかくなった頃、スライスチーズを入れて、溶き卵を加える。程よく混ざったらできあがり。これまた異常にうまい。是非試してほしい。

こんなにのんきな昼食を楽しめるようになったのは、子どもを産んで、コロナだったり、育児のためだったり、好きなことをするためだったりで、昼過ぎまでの仕事をして、家にいるようになったから。昼ごはんを家で食べられるからなんだけど。

若い頃、新卒で仕事を始めた頃は、ご飯を食べて寝に帰るだけの毎日。家でのんきに料理する時間はなかったな。昼ごはんは社食やコンビニ、友人と外に出て食べることがほとんどで。

子どもが欲しくて妊活するようになると、仕事は常勤からパートになった。日中暇ができて散歩に行くようになると、知らなかった街のうつろいを目にした。まぁその頃は、人が少なくて歩きやすいし、買い物しやすいし、と思うくらいだったけど。

あきらかに、同じ世界、同じ場所を生きているのに、時間が変わるだけで人によってまるで違う世界があることに気付かされたのは、子どもを産んで、日々子どもとお散歩に出かけるようになってからだった。

うちの子は太陽とお友達だ。光合成が大好きだ。抱っこひもの中にいる頃からお外が大好き。散歩に行けと促される。わたしも外が好きだしよく歩いた。子どもが自分で歩けるようになると、これまたよく歩いた。石を拾ったり虫を眺めたり。

すると、子どもの散歩の途中、保育園のお散歩に出かける子どもの集団や、公園で遊ぶ幼児の集団によく出会った。街には同じようにベビーカーを押すママがたくさんいた。

商店街は11時ごろにならないとお店が開かなかった。ある花屋は10時ごろから開けて、店頭に花を並べないまでも、掃除をしたり、水を撒いたりしている。八百屋は同じ時間には、せっせと店頭に野菜を置いて、もう開店しそう。服屋や雑貨店は、シャッターは閉じたままで、そんな早く開けたって人来ないですやん、と言わんばかりの静けさ。

ひと通り、散歩して、子どもをベビーカーに乗せて、ベビーカーをおしながら買い物して帰る帰り道、また商店街を通ると、本日休業や閉店している店以外の店が開いた。時間の経過が感じられた。

常勤だったころ、夕方になれば、大人がたくさん帰宅する。駅前もごった返す。飲み屋にはカウンターで飲み始めている人もいる。暗くなり始めた街は街頭がキラキラしていて、仕事の帰り、なんとなくこのまま帰りたくない気持ちになる。1人でもカウンターの居酒屋で飲んでみたり。フラフラショッピングモールを歩いてみたり。若い頃、夜はなんだか楽しかった。夜の街が疲れた自分を受け入れてくれている気がした。昼間は自分が白日のもと暴かれる気がして怖かった気さえした。だからか。若者やおじさんたちには夜が良く似う。

昼間の街と無縁だった頃を過ごして、夜の街に交わらない今を生きている。時間が違うだけでこんなに違う世界が広がっていたんだと感嘆した。

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時間が違うと世界が変わるように、立場が違うと感じかたも変わるという話。

妊娠して電車に乗ると、つわりの時期が1番辛くて座席をかわってもらいたい。揺れで吐き気もするし、めまいもすることもある。座ると楽になるからだ。

なるべく空いている時間帯の電車を使うようにはしていたけど、どうしても混んでいる時もあった。まだお腹が大きくない時期だから、見た目が全く普通と変わりないから、大変そうな感じを周りに与える時期でもない。そんな時はマタニティマークが頼りだった。さりげなくバックの前につけても気づく人はまあ少ない。優先席に移動して立っていても、かわってもらえないこともある。まあ世間を恨みそうになる。

自分が妊娠、出産をしてからはその気持ちがわかるから、そんな人がいたら席を率先してかわってあげようと思うようになった。

そこではっと思った。では、私が妊娠・出産する前に、そんな人に出会ったことがあっただろうか。ないのだ。席を譲る以前に会っていない。

どういうこと?おかしい。電車通勤して会社に行っていたし、都心部に住んでいるので、人の多い地域にいる。電車で妊婦さんに会わないことなんてあっただろうか。お年寄りには会っていた。席を譲ったこともある。妊婦さんは?

いや違う。おそらく会っていた。気づいていない。そう、目に入っていなかった。これが正しいと思う。

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どういうことかというと、おそらく人は、経験していないもの、認識していないもの、注意を促されていないものに対して、注意が行きにくいんだろう。妊婦さんがいい例だと思う。

私は仕事をしている時は、仕事に行き来するだけで精一杯で、電車では座れたら目を瞑って休んでいたかった。妊活している時は、なかなか子どもができなくて沈む毎日だった。妊婦さんなんて余計にみたくなかったし、見ようともしていなかった気がする。明らかに杖を持っていたり、お年寄りはわかりやすいので席を譲ることはできたけど。

目線が違う。認識が違う。気づいてないだけということもある。人生の経験を経て見た目にはわかりにくいけど、ただ歩いているのに、やっと歩いている人がいる、ということがわかるようになった。それからは、相手を注意深く見るようになって、やっと、いろんな人に手を貸せるようになった気がする。

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だから、悪気はなかった。いつでも席を譲ってあげる気持ちではいた。自分がどんなに疲れていても。だけど見えていなかった、相手を理解できていなかった。というのはひとつ理由にあった。

あの頃世間の人たちの冷たさを恨んだこともあったけど、違うんだ、見えていない、知らないことがある。今はそれを理解できる。

もしあなたが同じように、自分からしたら、みたらわかるじゃん、苦しそうでしょ?とか思っても、目の前に立つ相手が、観察力のない全くわからない相手もいる。でもだからと言って助けたくないと思っているわけでもないかもしれない。もしかしたらめちゃくちゃ心は優しい人かも。ただわからないだけ。そんなことはたくさん転がっていると思うんだ。だからどうしても自分から声を上げた方がいいこともあることを忘れないほうがいい。

優しくしてもらえない。のはかわいそうだけど、優しくしてもらえるよう声を発することも、時には大切なんじゃないかな。

恨むのは、その後でもいいかも。
自分が思っている世間は自分が考えている以上に相違があるかも。
と、激うま雑炊を食べながら思ったんだ。



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