常に実践に遅れて―書籍『VTuber学』感想

書籍『VTuber学』(岡本健、山野弘樹、吉川慧編著)を電子書籍で読みました。学術書として編集されたものですが、論文集ではなく、VTuber研究の入門書という位置づけです。以下はtwitterに投稿した感想の、文字数調整前のものです。

(2024.09.17追記)発売記念配信を観ての感想を第13章の後に追記しました。


全体

全体としては、企業勢への偏りはあるものの、一枚岩ではないVTuberの在り方を捉えてはおり、VTuberについて考えようとするときの切り口の例を示すものとしては十分だと思います。引用のしやすい商業書籍の形で出た事にも意義があるでしょう。

一方、内容では過去の『ユリイカ』との差別化がまだ明確ではなく、それぞれの研究同士が繋がって一つの体系をなしていない、という印象も受けます。例えば企業勢/個人勢、経済活動/鑑賞体験といった対立関係が分断されており、これらがもっと相互に参照し合うようになるのがいいと思います。

第I部 VTuberことはじめ

第1章 広田稔「VTuberの歴史」

コラム1 「Activ8株式会社代表取締役 大坂武史氏へのインタビュー」

第2章 吉川慧「VTuber企業のビジネスモデルと社会的広がり」

第1-2章は徹底して資本の論理から見たタレント業界としてのVTuber史で、第2章で言及されている個人勢の取り組みも売上や動員数に関するものです。正直に言えば、私はこの側面にあまり関心を持っていません(経済的な利益が人口増や技術開発を促すこと、量が質を生むことは理解しています)。ただ、コラム1でキズナアイさんの誕生の背景に「神を作る」という発想があったと記されているのは好感が持てます。

第3章 草野虹「VTuberのエンターテイメント性を考える」

第I部は、結果的に「経済(運営者)」「娯楽(視聴者)」「霊性(配信者)」というVTuber現象の三つの柱を提示していますが、娯楽にあたる第3章が音楽に偏っているのは気になります。VTuberの本質と魅力が「創作的ルックス」と「滲み出る本人性」にあるなら、音楽はその第一の例とはなり難いものです。

第4章 バーチャル美少女ねむ「すべてがVになる」

第4章、箸休め回ですね。(私にとって)新しい情報がGOROmanさんのくだり以外に何もない。強いて言えばメタバースに続いてVTuberの定義を獲りにきたことですが、これは実質的に2020年の定義、「バーチャルキャラクターとして発信」の言い換えです。「バーチャルキャラクター」はアバター活動、「発信」はインタラクティブ性に対応し、そして「として」が成り立つとき、常にそこには大なり小なりアバターを自分とみなす自己同一性があります。

この第4章が第I部に配置されていることはとても重要で、これがなければ本書全体が「非当事者派・企業勢VTuber学」となるおそれさえあります。配信者自身が議論に参加した上で、配信者/視聴者という区分自体を疑い、経済動向や現状の分析を超えた長期的な展望を語る章は必要でしょう。

本書の他のいくつかの章でもメタバースに言及していますが、それらの中にはメタバースの実態を捉えていないものもあります(VTuberの配信画面の単純な延長として見ている、メタバースをゲームとして見ている、アバターを自己同一性を反映しないものと見ている)。第4章はVTuberとメタバースとの関係を明確にするものでもあります。

VTuberはメタバース住民とは限らないが、メタバース住民は全てVTuberと呼べる、というのがこの章の中心的な主張です。つまり、アバターやボイチェンがメディアやインターフェースとして機能するということです。そして、インターフェースが使用者自身の内面をも変容させるというのが第二の主張です。

ただ、第4章で「ただの人間でいる人は少数派」(41%)と言った直後に両声類・ボイチェンを「少なくない割合」(計13%)と言っているのはあまりに前のめり思想が強いです。本書の主題がVTuberであることを活かして、声を通したアイデンティティ形成の話をもう少し説明してもよかったと思います。

第II部 調査編

第5章 岡本健「VTuber学入門」

第5章は、VTuber研究の材料となるものを過不足なく網羅していると思います。特にVTuberの配信環境や背景にある技術についての解説は貴重な配信者側からの情報です。ただし、アイデンティティやフィクション性の話の観点から言えば、ゾンビ先生は恐らく特殊な例です。

第6章 関根麻里恵「メタVTuberコンテンツの表象文化研究」

第6章について、私は『VTuber渚』を観ていないので、このような読み解きにコメントする立場にありません。見方によって解釈が真逆になることも珍しくない以上、このような読み解きはVTuberの性質ではなくそれを読み解く者の姿勢を映すものだと思います。

メタVTuberコンテンツは、VTuberがどう見られているかを浮かび上がらせるものではありますが、それゆえに、VTuber自身による先進的な取り組みから一歩遅れて、既存のフレームによる理解に留まるおそれがあります。

なお、引用されている松浦優さんの立場は、バーチャル美少女への欲望や希望を通して既存のジェンダー規範が生身の女性に向けて再生産されることがないようにすることを、「美少女への欲望と女性への欲望とを同一視する人々に向けて」要請しているものだということには注意が必要です。

(2024.09.14追記)そもそもこの引用は、松浦さんの本論に入る前のイントロの部分の、先行する黒木さん・難波さんの主張を要約している箇所から取られています。松浦さん自身の主張は以下のようなものです。

すなわち、起点領域(人間-美少女の「かわいさ」や外見的魅力など)が目標領域(バーチャル美少女の魅力となる要素)に移されているのであって、その逆ではない。後者は前者の(過去の、もしくは現在の)要素を反映しているが、しかしそのことは前者をそのまま再生産していることにはならないのである。ここで生じるズレによって、バーチャル美少女のメトニミー基盤の「現実性」を掘り崩す可能性が開かれるのであり、そして対人性愛を相対化することが可能になる。また逆に、このズレを予め抹消すると、対人性愛中心主義や性別二元論を暗に持ち込むことになりかねない。
(中略)
つまり今後の研究では、バーチャル美少女を単純に「女性」とみなして議論するのではなく、「字義どおりには人間-美少女ではないということ」がいかなる意味を有しているのか/いかにして無意味化されるのか、ということをきちんと扱うべきである。

松浦優「メタファーとしての美少女――アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル」pp.72-73、『現代思想』九月号 第五〇巻第一一号、青土社、2022

(追記終わり)

コラム5 宇野颯樹「一生てぇてぇしといてもろて」の探求

コラム5の「VTuberについて研究しようとする際、多くの人が無意識に〈配信〉だけを想定してしまうことには一定の注意を払うべきである」という指摘は重要です。本書は当事者研究としての性質を帯びた章がいくつかあり、それは必要なことなのですが、それゆえに前提や例が偏る危険が常にあります。

「VTuber文化自体が他コミュニティよりも新規用語・用法を生みやすい空間設計である」という指摘も重要です。一人一人のVTuberのファンコミュニティは小規模に留まりながら、そこでガラパゴス的に醸成された慣習がコラボなどを通じて外に出る機会が適度にある、ということでしょう。

第7章 リュドミラ・ブレディキナ「当事者の声をとらえる」

第7章は、こちらは私にとっては初めて知る情報が多くありました。明かされてみれば人を対象とする研究で考慮するべき項目としては当然に思えることですが、「バ美肉のジェンダー論研究」がこのように中立的で透明性のある手法をとっていると周知されることには意義があります。

「リッカート尺度を応用しても、美少女になることが自己認識に「どのように」貢献するかを解明するのには不十分であると結論づけた」「統計的検定で明らかになる「傾向」と、個別の人々が持つ「意見」や「気持ち」は、同列に扱ってはならない」。これこそあるべき誠実な態度だと思うのですよね。

第8章 池山草馬「重なり合うアバターたち」

第8章、VTuberの文脈から仮想世界の研究の必要性を導く文章の技前が美しいですね。内容については、アバター使用者についての(現状のVTuber研究の文脈では)貴重な研究であり、そこにシルヴィオを引いてくるのはいわゆる「喰われ」などのアバター現象を考える土台を作る上で的確だと思います。

指摘されている「アバターたちは、ユーザーとは切り離された自分自身の名前を持っていたのである」という事実には私も大いに関心を持っています。ただし私は、アバターが薄荷のような公式の名前を持っていることはユーザーの自己表現や没入感とあくまで相反するものだと思っています。

同時に、ひとたびアバターとの一体感がある程度獲得されれば、自分であるものが他者でもあるという感覚(私がはこれに興味があります)を掴むのにアバターの公式の名前は貢献するとも思います。VTuberの場合は物理現実の自分とは異なるキャラクターを作る圧力がメタバースより強いことで他者感が代替されているのかもしれません。

ともあれ、「アバターの「一生」のフロー」の図からも窺えるように、筆者は配信者でも視聴者でもない「アバター視点」――人間ではなく情報の視点、つまり美少女の本質により近い視点――に立っており、とても好感が持てます。また、繰り返しますが、この研究の意義と観察結果が持つ意味をVTuber学の文脈の中に位置づける仕方が明解で見事です。

(2024.09.14追記)VTuberの文脈から仮想世界の研究の必要性が導かれる流れは、私にとっては自然なのですが、「仮想世界の住人はVTuberの未来の姿である」という、第4章で仄めかされたような前提が意識されていなければ飛躍に見えるかもしれません。しかしその前提が意識されていなくとも、本章の最後にもあるように、「ソーシャルVRのアバターは必ずしもアイデンティティと結びつかないのに、VTuberのアバターはなぜそうではないのか?」という問いを浮かび上がらせるものとしてこの報告は有意義だと思います。そしてその問いに答えるものの一つが、第9章で論じられる倫理的アイデンティティと物語的アイデンティティでしょう。(追記終わり)

コラム7 高倉暁大「VTuberの図書館活用」

コラム7で報告されているVTuber体験企画の取り組みは、文化の普及や技術教育として有意義なのもさることながら、提供したい体験としてアイデンティティの撹乱やプロテウス効果を明確に挙げているのがいいですね(そして、参考文献には当然METがあるわけです)。

第III部 理論編

第III部は、まず全体として、分析哲学であると同時に当事者研究でもあるという印象です。第10章で仮説の評価基準として挙げられている正確性の判断が、視聴当事者としての(広く合意されたもののない)「直観」に強く依存しており、この直観の違いが配信者説論者とそれ以外の説の論者の対立に繋がっているように見えるからです。

第9章で架空のVTuberとその配信者として導入された尾無ティブと秋山花子は、第III章全体の中ではうまく機能していないように見えます。実際のVTuberの「中の人」に触れることが望ましくないというのは、仮説の正しさとは関係ないマナーにすぎませんし、配信者説の論者には中の人を隠す動機がなく、それ以外の説の論者は自分が特定のVTuberのファンであることをアピールしたがっているようだからです。

とはいえ分析哲学の紹介としては第III章は有意義です。できるだけ思い込みを排して「ちゃんと考える」という選択肢とその具体的な方法、もしそれをしなければいくらでも当事者に不利益かつもっともらしい解釈をされてしまうということを、身近な(それゆえに大衆蔑視に基づく非難も受ける)VTuberを題材として伝えるのは好ましいことです。

第9章 山野弘樹「VTuberとはいかなる存在者か」

第10章 篠崎大河「実在する配信者としてのVTuber」

第11章 富山豊「人格(ペルソナ)としてのVTuber」

第12章 松本大輝「フィクショナル・キャラクターとしてのVTuber」

第13章 本間裕之「「身体」と「魂」としてのVTuber」

第9章の制度的存在者説を考えるにあたって真っ先に思い浮かぶのは(第11章の注にもあるように)難波優輝さんの「三つの身体」との異同です。三つのアイデンティティは、パーソンとキャラクタとの間を仲介するメディアペルソナと重なるところが大きいですが、山野さんは配信者寄りの視点からメディアペルソナの構成要素をさらに細分化しているように見えます。

第10章で検証されている五つの事例は全て、非還元主義の制度的存在者説でも説明されているものです。配信者説は単純性にこだわるあまり、当事者にとってどのように経験されているかの内実を単純化しすぎているように見えます。特に(5)の分裂騒動については、鑑賞者が「どのように」反発したのかを見なければ、鑑賞者がキズナアイさんを通して求めていたのが配信者なのか倫理的・物語的アイデンティティなのかは判断できません。

これに対して、第11章がはっきりと「現象学的に取り扱う」と宣言しているのは好ましいことです。視聴者の前にあるのは、VTuberが病院に搬送されたという事実ではなく「病院に搬送された」という語りだからです。この語りは制度的存在者にとっても可能なものです。

部分的フィクション戦略を必要としてしまうこと自体が既に、VTuberがフィクショナルないし制度的存在者であることを示していると私は思います。物語オペレーターは制度的存在者説のいう「制度」と同じものであり、これを伴う配信者説は「制度的配信者説」にすぎないのではないでしょうか。

第12章で「部分的フィクション戦略によってキャラクターの存在は消去できない」と述べられているのはこれとは別の論点ですが、やはり、配信者説は単純性において勝るのではなく事態を強引に単純化しようとしているにすぎない、という見方を補強するものです。

しかし思うに、配信者説は配信者とキャラクターとの一致を問題にしますが、これだけをもって「VTuberが配信者に還元される」とは言えず、キャラクターに還元されると考えてもいいのでは? 第12章の解釈的透明性の議論とも少し重なりますが、視聴者にとっては配信者の存在こそ制度的でフィクショナルなのでは? いえ、「素の信念」に従うならこれは言い過ぎですか……

第11章が角巻わためさんのエピソードを列挙している部分は、議論に必要と思われる分量からすれば過剰で、当事者性を超えて政治的な思惑が仮説の背景にあるのではないかという疑いを、批判的な読者に抱かせる恐れがあります(もっとも、政治性を抜きにして美少女を語ることは不可能ですが)。

VTuberが視聴者にとってどのように表れているかという仮説について、その適用されうる範囲の最小単位は一人のVTuberではなく、一回の鑑賞体験であるはずです。同種のエピソードを複数挙げる必要はないでしょう。なお、第11章の筆者は「物語」を虚構という意味で捉えていますが、第10章で意図されたのは「文脈」という意味合いだと私は思います。

第13章は、最初に西洋中世に注目すると宣言するよりもむしろ、「VTuberにおいて今日自然に用いられている身体と魂モデルが、歴史的にどのように議論されてきたのか」という導入にするのが自然なのではないかと思います。また、VTuberを身体と魂のような多面性を持ったものとして構想することは、結局はオペレーターの使用の一種(オペレーター付きの主語を秋山花子や尾無ティブという一つの主語へと命名し直し、そのそれぞれを身体や魂に比定することと等価)だと思います。

私自身は、制度的存在者説(第9章)をとりながら、補足的に「権利」(第11章)という言葉で誹謗中傷の問題や配信者とVTuberの間の経験の同期の問題を説明しようとする立場です。ただし、これは分かりやすい言い換えにすぎず、突き詰めればそもそもの「権利」という概念の構成を議論しなければならないでしょう。

誹謗中傷で配信者が傷つくという問題も、権利の分有によるアイデンティティの部分的共有として説明できると思います。そうだとするなら、これはただの思いつきですが、文化人類学の言葉で、配信者とVTuberの間の何らかの贈与によるマナの循環について議論することができるかもしれません。

また、ここでの分析哲学は、何らかのモデルを用いて直観を言語化する試みと呼んでよいように思えます。そうであるなら近現代の自然科学のモデルも候補に上がるはずで、例えば個体化の問題は境界条件と基底関数の周期性と美少女散乱断面積で説明できると私は期待します。


感想は以上です。これを一つのマイルストーンとして、とにかく多くの議論が公になされ、美少女アバター実践についての社会的な理解が洗練されていくことを望みます。本書で触れられた分野に加えるなら、私は精神分析の立場からVTuberやメタバースが語られることを期待しています。

(2024.09.17追記)発売記念配信視聴後の感想

2024年9月14日に、編著者の岡本さん・山野さん・吉川さん及びバーチャル美少女ねむさんとの発売記念対談が配信されました。

私もこの配信をリアルタイムで観ながら、そのとき改めて考えたことについていくつかのコメントをお送りしました。以下はそれらのコメントを補足と共に整理したものです。


まず、配信中の第12章の振り返りのときに、私は「視聴者にとってVTuberがどのように表れているかを考える場合と、配信者がVTuberに対してどのような身分を持つのかを考える場合では、今のところ違う説を採用してもいい気がしますね」というコメントをしました。これは、配信者(中の人)とVTuberの関係を考えるにあたって、VTuber現象を中の人の立場から見るか視聴者の立場から見るかで体験の中核をなすポイントが異なり、『VTuber学』に掲載されている五つの論はどれもその両方のポイントを捉えきれていないのではないか、従って今出されている説から妥当なものを選ぼうとするなら、どちらの立場から見るかによって複数の説を使い分けざるを得ないのではないか、という意味です。

中の人から見れば、重要なポイントはアイデンティティの問題に集約されると私は思います。現実の出来事の取り扱いはVTuberとしてのアイデンティティの安定性を揺るがすから悩ましいのですし、誹謗中傷は中の人とVTuberがアイデンティティを共有している度合いに応じて中の人の問題になります。一方、視聴者から見れば、現実の出来事やキャラクター設定の取り扱いが「フィクションへの参加を脅かすかどうか」のような観点で問題になります(誹謗中傷に対処するのが中の人かキャラクターかということは、視聴者の立場からは問題にならないと思います)。

本書に収められている五つの議論は、どれも視聴者の経験に基づいていますが、中の人の経験にも言及する度合いが異なります(五人とも恐らくVTuberの中の人ではないのでそれは当然で、だから本書には第4章が必要なわけです)。私の思うに、中の人の立場へのコミットメントが強い順に9>11>12>13>10です。配信中で山野さんは「自分の論は視聴者側に寄っている」と仰っていますが、私が『VTuberの哲学』を第3章の最後まで(2024.09.16時点)読んだ印象では、上で第9章の感想として述べたように、山野さんの議論は三つのアイデンティティの引き受けという形で、中の人側に起こる経験もよく説明していると思います。

ただし、配信中で岡本さんが「ゾンビ先生が魔窟に今も一人でいるような気がする」と仰ったことにも萌芽があるように、キャラクターが中の人のペルソナの一つとも言い難いほど解離して他者のように思われる状態(いわゆる「喰われ」)や、それが時間経過と共に進行する事態を捉えるには今の諸説では不十分に思えます。第11章のように、中の人の過去の経験をVTuberが語ることによって事後的に取り返すと説明しても、それではなぜそのように語り、取り返す権利をVTuberが持っているのかという問いは残ります。VTuberの構成要件となるための権利が中の人からモデルや(メディア)ペルソナへ徐々に分譲されていくという、時間的なダイナミズムを考慮する必要があります。

解離の問題は、第12章で提案されたキャラクター創造説に、第8章で提案されたアニメーションのアプローチを合わせることで議論できると思いますし、現に実践の現場でも同じような考え方がされているはずです。時間的なダイナミズムには第13章が触れています。身体によって個体化された魂が身体を失った後も存続すると述べられている箇所は、山野さんのいう「モデルと身体が結びついていない状態でのシームレスな鑑賞」と重なりますが、身体と魂モデルではデビュー前後・モデル破綻前後・引退前後を同じように個体化された魂の連続性の問題として扱うことができます。

第13章では「身体」と「魂」がVTuber文化の中とは逆の使われ方をしているという注意がたびたびなされますが、要するにどちらも、連続性を認めたいものに「魂」という言葉を割り当てていると考えれば分かりやすいと思います。VTuber文化の中では、モデルを新しく獲得したり乗り換えたりしても変わらないもの(≒中の人のパーソナリティ)を指すために中の人を魂と呼び、第13章では中の人が活動をやめてもフィクショナル・キャラクターが残ると主張するためにキャラクターを魂と呼んでいるということです。

第13章でいう「身体」とは、配信者の身体や意識のことではなく「そのVTuberに帰属する配信者が実在するという事実そのもの」のような意味合いで、どちらかといえば視聴者の見方を説明したものですが、このことは配信者自身が同様に自分のVTuberを身体と魂モデルで捉えることを妨げません。個体化された魂を配信者が多かれ少なかれ意識する状況のことを、要するに解離と呼んでいるのだと思います。配信者がVTuberとしてのアイデンティティを引き受けているとき、配信者の意識はここでいうVTuberの身体と呼べますが、そうでないときには、個体化された魂は身体がなくとも存続し、配信者の意識と独立に存在しているように、配信者にとっても見えるでしょう。

ところで、このような「遊離した霊魂」とでも呼ぶべきものがなお何らかの形で配信者に影響を及ぼす事態は、現代で言えばまさに現象学の領分ではないでしょうか? 「幽霊といえばフッサール」というのはあまりに内田樹に寄った見方?

身体と魂モデル(本間)に基づくVTuberの解離

身体と魂モデルは、第4章で導入された分人主義の、拡張を経た上での特殊な場合ともみなせます。「美少女でない」「美少女である」のような相反する述語を、なぜか同じ一つの存在者が主語となってとっている(とっていてほしい)という事態を表すために、一人の人間の中に状況に応じて異なる表出の仕方をする複数のコミュニケーションのモードがあるとするのが分人主義であり、それをコミュニケーションのモードに限定せず単に複数の部分(内部構造)一般を指すように拡張した上で、それら複数の部分が対等でなく一方が他方の個体化の機会となったりすると考えるのが身体と魂モデルです。

第III部のどの説も、VTuberが何らかの意味で複数の側面からなっていることを認めているように私には見えます。それは中の人とキャラクターであったり、「中の人として」という物語オペレーターと「キャラクターとして」という物語オペレーターであったりしますが、どのみち「VTuberは中の人と同じ存在者か? それとも別の存在者か?」という問いが問われてしまった時点で、VTuberはこの議論の始めから「中の人とは別の存在者であるかもしれないと考えられうる理由のある存在者」でしかありえなかったのであり、素朴な還元主義は最初から成立しえなかったと私は思います。


〈以上〉



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