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美少女場の量子論(0)美少女と粒子的描像

概要:情報から美少女が擬人化されて生成される様子が、場の量子論において場から粒子が生成される様子になぞらえられることについて。

 この記事は2022年12月18日にバーチャル学会2022で発表したポスター講演「美少女場の量子論–現代的美少女像の数理的記述体系の構築をめざして」(D5-47)の原論文であるべきものです。

0-1 美少女論の今

 現代の美少女現象は多岐にわたる。Vtuberの勃興と3D美少女アバターのコモディティ化によって、それ以前の人類史では稀にしか考慮されなかった「自己像/アイデンティティとしての美少女」という側面が広く知られるようになったことがその一因だ。「美少女とは何か」という問いに改めて向き合うため、無数の試みがなされた。その中には当然、自然科学の言葉を借りて美少女現象を説明する試みもあった。例えばとま氏の「バーチャル美少女量子論」がそれにあたる。

 近代自然科学はミクロの量子からマクロの宇宙までを矛盾なく、しかも定量的に説明しようとする体系であり、美少女をこれに当てはめられるならばあらゆる美少女現象を手中に収めたも同然であると思われた。

 しかしこのような試みは、美少女の文化が経済規模と人口を伸ばし、それに伴って性差別をめぐる政治的摩擦の焦点となっていくにつれて廃れた。美少女がもはやインテリオタク層だけのものではなくなり、思弁的な言説がウケなくなったことが理由の一つ。そしてそれ以上に、「美少女とは何であるか」という議論自体が、迂闊なことの言えないセンシティブな話題となったのだ。

 とはいえ、誰かが語らねばならないことだとは思う。実践は広まるために理論を要請し、理論は新たな実践の試みを生み、やがて政治の場で公文書や答弁の素材ともなるだろう。そして語るとすれば、今日でのそれは美少女が現実の女性の代替物であるという捉え方から離れた、美少女という枠組みの中で完結して自律した美少女観を表現するものになるはずだ。近現代の物理学が、人間が神の猿であることを前提としないのと同じように。

0-2 場の量子論

 本「美少女場の量子論」シリーズでは、物理学の「場の量子論」という理論の考え方を援用して現代の美少女現象を記述することを考える。ここで、場の量子論が何であり、なぜ場の量子論を美少女に適用するのかということについて、若干の説明をしておくべきだろう。

 物理学と一口に言っても、その中にはいくつかの棲み分けがある。分け方もいくつかある――理論・実験・シミュレーション…と分けることもできるし、素粒子・物性・宇宙…などという分け方もできるだろう。素粒子というのは時に花形のように扱われる分野で、それは何といっても物質の最小単位について探る分野だからだろう。人体のような複雑なものも、分解していけば単純な粒になる、その粒を調べれば何かこの世の存在の本質のようなものの一側面(あくまで一側面だが)が見えてくるのではないか、という発想はそう突飛なものではない。そして、素粒子のような微小な粒子の運動や反応を定量的に表すためにあるのが量子論だ。

 素粒子は物質の最小単位であるから、量子論を単に「ミクロの理論」と理解してもよい。しかしそれ以上に重要だと私が考えるのは、「粒子とは何か」という問いにまで量子論が踏み込みうるところである。例えば、通常我々が粒子として想像する電子などだけでなく、音波や衝撃波なども粒子のような挙動を見せることがある。それはパルスのように、短い波が一つずつ間隔を空けてやってくる場合に顕著だ。しかしそのような場合に限らず、量子論ではあらゆる波に粒子のような側面があり、あらゆる粒子に波のような側面があるとする。広がりを持つものである波と、一箇所に固まったものである粒子が同じものであると考える、まさにこの点が、後述するように美少女にも通じる部分なのだ。

 量子論は粒子と波の二重性を基礎にした理論だが、量子一個がどこにどのくらいの確率で検出されるかを計算する場合に比べて、複数の粒子が反応して吸収されたり放出されたりする確率を計算するためには理論を大幅に拡張しなければならなかった。反応の前後で粒子の数が変わる状況を表現するための数学的なテクニックが必要だった。こうして作られた量子多体系の理論が場の量子論である。粒子があるように見えない真空でも、波が広がっている。様々な波長の波が重なり合って、ある場所で振動が特に大きくなるとき、それが粒子としての性質を帯びて他の粒子と反応する、あるいは観測機器に引っかかる。このように、潜在的に粒子を生成したり消滅させたりする能力を持った「場」がどこにでもあると考えるのが、場の量子論という名前の理由だと私は理解している。美少女も同様に、新たに生まれることがある。

 物理学とは自然に対して人間が与えた解釈に過ぎない。それが「粒子」という形で表現されていることは決して自明ではなく、人間という生き物の思考の癖を反映しているのではないか。人間は粒子性(個別性)という概念を通してしか世界を認識できない生き物ではないか。ユングは人間が種として持つ(と彼は考えた)そのような癖を元型と呼んで分類したが、その中では精神ガイスト元型と名付けられているものが粒子性に近い[1]。そして、美少女も人間が生み出したものである以上、それについて体系的な理論を作ろうとすれば、同じくその根底には粒子性が現れざるを得ないのではないか。それなら、粒子性についての既に確立された理論である場の量子論を借りるのが近道であろうと私は考えた。ひとたびそう考えたならば、美少女にまつわる諸現象と場の量子論の類似点を見つけ出すのはそう難しくなかったのである。

0-3 美少女場の量子論の基本的枠組み

 美少女場の量子論では、美少女を粒子になぞらえて取り扱う。これは全く自然な発想だろう。より重要なのは何が波動性に相当するかということであり、私は「物語」をそこに据える。これは、ゼロ年代の後半から列島に吹き荒れ、『艦これ』で爛熟を見た擬人化ブームの印象から得た直観に基づいている。非局所的・連続的である物語は、局所的・離散的である美少女へと擬人化されることで遠くまで伝播するようになり、他と相互作用する力を獲得する。このアイデアの詳細については以下の記事を参照されたい。

 場の量子論と擬人化についての私のこの着想の元は、さらに古くまで遡ることができる。文化人類学者の中沢新一が、著書『ポケットの中の野生』[2]において、コンピューターゲームについて次のように語っているのがそれだ。

 いまのようにCG技術が発達していなかった時代、素朴な真っ黒な画面は、まるでインベーダーを生み出すエネルギーの場のように見えた。つまり、それは空虚な無の空間なのではなく、円盤やロケットらしきかたちをした光の固まりが生成と消滅をくりかえす、エネルギーの充実した潜在的な場であるかのようにふるまったのだ。そこから光の固まりという軽い物質性を与えられたエネルギーが、こちらの世界に躍り出してくる。

中沢新一『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』

 初めて同書を読んだ2004年から2022年の今までの間に、キャラクター産業には多くのことが起こった。そのうちのいくつかは人類史上の革命であったとさえ私は考えている。今こそ、インベーダーと宇宙についての中沢の思いつきを、美少女と物語についての数理モデルへと発展させ、乱立している美少女論を一つにまとめ上げることができる。究極的には、この二つの組み合わせはどちらも、意識と無意識の組み合わせである。美少女を理解することは我々自身を理解することであり、美少女を正しく運用することは我々の未来を切り拓くことである。


 本「美少女場の量子論」シリーズでは、美少女場の量子論の数学的定式化について、主に各変数や数学的操作が美少女現象の何に相当するかという当てはめの話題を中心に、検討していきたい。高校範囲の微分・積分と行列の計算の知識があった方がよいが、なくても大枠の理解に影響はない。また、元の量子論の解説も都度行う。私の理解の範囲で、できるだけわかりやすくなるよう努めよう。美少女は、理系学徒だけのものではないからである。

 物語と美少女の二重性を、波と粒子の二重性になぞらえて理解する。アインシュタイン・ドブロイの関係と、情報の伝播の観察から得られる古典的な運動方程式とから、1美少女系の美少女波動方程式を導くことができる。ここまでは量子力学の範疇だが、現実の現象の多くは多美少女系であるため、第二量子化によって場の量子論へと拡張する。波動関数を場の演算子に置き換えて交換関係を要請するという場の量子論の手続きに従い、量子化された美少女場を導入する。美少女場は美少女を生成消滅させる演算子であり、美少女現象は全て美少女の生成消滅で表現することができると私は期待する。そうであるなら、これらの現象は美少女ファインマン図で図示することができる。


[1] C. G. ユング、『元型論』、林道義訳、紀伊国屋書店、1999
[2] 中沢新一、『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』、新潮社、2004

〈以上〉

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