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最終的に洗濯洗剤になった!?エコすぎる江戸の浴衣のリサイクル事情

浴衣というと、現在は花火大会や夏祭りに着て行くカジュアルなお出かけ着というイメージが強いかもしれません。

けれども、そんなイメージが定着したのは戦後のこと。明治時代から昭和にかけては主に部屋着や寝巻のイメージが強く、さらに遡って江戸時代以前においてはお風呂上がりに着用するバスローブのようなものでした。

しかも、江戸時代の浴衣の用途は豊富で、最終的にリサイクルされて洗濯洗剤にまでなっていたということはご存じでしょうか?

今回は、そんな浴衣の歴史と意外と知られていないリサイクル事情についてご紹介します!

浴衣の歴史

入浴用の衣服から始まった浴衣

『源氏物語図 若菜上下』西川祐信 / 京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ

「着物と浴衣の違いは何か?」とよく聞かれることがあります。

浴衣は主に木綿やポリエステルが主流で、夏らしい柄のものが多い、中に襦袢を着ずに着付けるなどの違いがありますが、もっとも大きな違いといえるのが成り立ちでしょう。

着物は、平安貴族が十二単などの下に着用していた小袖(こそで)と呼ばれる下着を起源としたもので、これが次第に武士や庶民の間で普段着として広まり、現在の着物に発展しました。

一方の浴衣も同じく平安貴族の衣服に由来していますが、こちらはお風呂で着用されていた湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれる麻の衣服が原型。当時のお風呂は蒸し風呂のようなもので、貴族たちはこの湯帷子を着用して入浴していたそうです。

銭湯の普及とともに広まった庶民の浴衣

湯帷子は室町時代には身拭いと呼ばれ、武士が入浴後に羽織って水分をふき取るいわゆるバスローブ的なものとして用いるようになりました。

浴衣という呼び名が使われ始めるのは、江戸時代の中期頃。この頃になると、銭湯の普及や木綿栽培の拡大によって庶民の間にも浴衣が広まります。

『銭湯の内部』落合芳幾 / メトロポリタン美術館

当初は身拭いとして湯上り後に屋内で着用されていましたが、次第に浴衣のまま外を出歩くようになります。この頃、ちょうど盆踊りや花火大会などが行われるようになったため、こういったイベントの開催が浴衣で外出するようになった理由の一つと考えられています。

享保期(1716年~1736年)からは、女性が身支度や整髪時に浴衣を着用するようになり、寛政期(1789年~1801年)には夏の日常着になっていったようです。

浴衣で夕涼みをする光景(『大川端夕涼』鳥居清長 / メトロポリタン美術館)

また、浴衣は馬方や荷物運搬者など汗をかく肉体労働者や、行商人、船頭、海女、魚屋などが仕事着として着用。

さらに、天明期頃(1781年~1789年)からは歌舞伎役者が自らの役者紋や好みの文様を染め出した浴衣を、楽屋浴衣舞台衣装として着るようになります。これにより、贔屓の役者の浴衣を真似た、いわゆる“推し浴衣”も庶民の間で流行しました。

浴衣は、夕涼みはもちろん、昼間の舟遊びや萩見見物などに着用されていたものの、江戸時代後期頃になると女性の浴衣での外出は主に夜間に限られ、昼間は憚られていたようです。

夏の浴衣が定着する足掛かりとなった「注染」の技術

注染の浴衣

夏の浴衣が全国的に定着するのは、明治時代に「注染(ちゅうせん)」と呼ばれる染色技法が発明されてから。注染は重ねた生地の上から染料を注いで染める技術のことで、安価で量産できることから、高級で手間のかかる手染めの浴衣に代わって多く出回るようになりました。

注染の技法については、わかりやすい動画があったので貼っておきます↓↓

とはいえ、この頃の浴衣は主に寝巻や部屋着として着用されており、今のような夏のお出かけ着となるのは昭和の末~平成にかけてといわれています。

花火を介して外出着になったのは、実は昭和の末から平成にかけての頃で、わずか30年前です。昭和中期まではゆかたは寝巻きと考えられていたため、ゆかた姿ではホテルのロビーに立ち入れませんでした。

ゆかた学 -200年の変化から最新トレンドまで-

昭和の末頃になると、より安価なプリント柄のものが登場し、色柄も多様化。近年、盛夏以外でも気温が高い日が増えてきていることから、ロングシーズン着用できるデザインのものや、夏着物や単衣として着回すことができるハイブリッドな化繊素材のものも多く見られるようになり、浴衣の活躍の場はさらに広がりつつあります。

エコすぎる着古した浴衣の使い方

浴衣の歴史をご紹介しましたが、改めて江戸時代の浴衣にフォーカスを当ててみましょう。

江戸時代の浴衣は、当初は主に湯上り後に着用する身拭いでしたが、次第に浴衣のまま外出するようになったので、最終的には今でいうスウェットのような位置づけの衣服だったと思われます。

そんな浴衣を、ヨレヨレ・ボロボロになるまで着倒したあと、江戸の人々はどのように処分していたのでしょうか?

現在であれば、古くなった衣服はゴミとして捨ててしまうことがほとんど。けれど、世界でも類をみない循環型社会だった江戸の街では、着古した浴衣をゴミにはせず、驚くほど色々な形で再利用していたんです!

その具体的な方法を第1段階~第3段階にわけてまとめてみました。

第1段階:衣服としての再利用

江戸の旅コーデ(『江の嶋もうで』二代目歌川豊国 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

第1段階は、“衣服”のひとつとして再利用する方法。肌触りがよく、丈夫な木綿素材の浴衣は、浴衣としての役目を終えた後も以下のような形で活用されました。

・旅の塵除けコート
・雨コート
・丹前下(襦袢代わり)
・寝巻
・子どもの浴衣として仕立て直す

旅の塵除けコートや雨コートとしての浴衣は、主に女性の間で使われていたようです。

第2段階:実用品としての再利用

衣服として着用するのが難しくなった浴衣は、古布やハギレとしてさまざまな実用品にアップサイクルされました。

・擦れたり綻びたりしやすい着物の肩や膝裏部分の補強用のあて布
・下駄の鼻緒が切れた時の応急処置用の布
・赤ちゃんのおしめ
・掃除用のハタキ
・ぞうきん

竹馬きれ売り(『江戸名所百人美女 木場』歌川豊国・国久 / 国立国会図書館デジタルコレクション)

また、着物・浴衣問わず古くて着れなくなったものや、仕立ての際に余った生地などは古布やハギレとして販売されることもあり、竹馬きれ売りと呼ばれる業者が、木馬状の台に掛けて肩に担いで売り歩いていました。

購入されたハギレは、半衿や腰紐などに活用されていたようです。

第3段階:灰として有効活用

浴衣はぞうきんになっても、まだゴミにはなりません…!
おしめやハタキ、ぞうきんなどとして使い古した浴衣は、乾かした後にかまどの焚き物になります。そして、灰になったら洗濯洗剤として使用したり、棒手振り*の灰買いが回収して肥料や染織の媒体として使われたりしました。

*てんびん棒でかついで売り歩く行商人のこと

棒手振り。向かって一番左が灰買い(『守貞謾稿 巻6』国立国会図書館デジタルコレクション)

このように、リユース・リサイクルのシステムが徹底されていた江戸の街では、浴衣のみならずさまざまな日用品の再利用が習慣化されており、現在の私たちの感覚ではゴミや不用品として認識されるものも、当時の人々にとっては大切な資源になっていたのです。


入浴時に着用するための衣服から、身拭い、寝巻、部屋着、夏のお出かけ着とアップグレードしてきた浴衣。同時に、江戸時代には仕事着や役者の楽屋衣装として着用されたほか、古くなったものは様々な形でリサイクルされました。

長きにわたって変幻自在な活躍を見せてきた浴衣ですが、当時の人々は衣服の有効活用や発展のために何か特別なことをしてきたわけではありません。日常的に着用してきただけです。

浴衣に限らず、衣服はその時々の社会背景に伴って変化するニーズに応じて変わっていくもの。衣服は人が着ることによって“今”と繋がりを持ち、役割をアップデートしていきます。そのため、着なくなった衣服は“今”と切り離され、美術館に展示されるだけの過去の遺物となるのです。

浴衣は、私たちが今のライフスタイルにあわせて自由に楽しむだけで、“生きた文化”として未来へ引き継がれていきます。

「浴衣をまだ着たことがない」「長らく浴衣を着ていない」という方は、今年の夏こそぜひ浴衣を楽しんでみてはいかがでしょうか?

【参考資料】
・『江戸衣装図鑑』  菊地ひと美(東京堂出版)
・『日本の色の十二か月』吉岡幸雄(紫紅社)
・『浴衣 江戸時代における諸相とデザインの展開』清水久美子
日本ゆかた文化協会HP