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日本で安楽死は認められるべきなのだろうか


生きる権利があるのと同じように死ぬ権利がある、と安楽死の議論でよく出てくる。


昨年NHKでスイスへ渡航し安楽死を遂げた女性のドキュメンタリーが放送されると、ネットではかなり反響があった。見たところ海外へ渡航しての安楽死に対し賛成意見や日本でも安楽死ができるように法制度化を求める声が多く見られたように思われる。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009051076_00000


そんな折、伊藤計劃の『ハーモニー』と中山七里『ドクター・デスの遺産』を読み、生命倫理に興味を持ち、小林亜津子『はじめて学ぶ生命倫理』を読んだので、今考えていることについてつらつら書いていこうと思う。


安楽死と尊厳死について


私は上記の3冊を読むまで安楽死と尊厳死の違いがよくわかっていなかった。

カテゴライズすると安楽死には①積極的安楽死②消極的安楽死(=尊厳死)がある。

①は日本では法的には認められていない。

しかし1991年の東海大学安楽死事件に対する、1995年の横浜地方裁判所の判決においては、

(1)患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛があること
(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、代替手段がないこと
(4)患者自身による、安楽死を望む意思表示があること

の4点を満たせば安楽死を認める、とされているが未だに認められた例はない。というのも(3)の判断を下せないからである。死ぬことしか苦痛を緩和できない状態など医療上ないのである。


一方②に関しては法的に認められている。例えば植物状態の方への延命治療や胃瘻の中止、終末期ケアなどが該当するだろう。


ドクター・デスの遺産と安楽死


ここでは『ドクター・デスの遺産』の重要なネタバレを含むので未読の方は注意していただきたい。



この小説では、ドクター・デスと名乗る者が20万円で安楽死を請け負っている。20万円という額から、薬剤費や交通費等考えると営利目的ではないことは明らかだ。

ドクター・デスは無国籍医師団として戦地で勤務した際に、敬愛する医師のブライアンが四肢の損傷等で苦しむ怪我人に対し同意を得た上で安楽死をさせる。ドクター・デスも当初は安楽死は医療行為ではないと批判していたものの、目を覆いたくなるような戦場の状態を見て次第にブライアンの「医療行為」に賛成するようになる。そんな最中、ブライアンが戦場で大怪我をし、どんな治療を施しても助かることはない状況になってしまい、ドクター・デスに安楽死を依頼し、ドクター・デスは実行することとなる。


こうした経験から、日本に帰国後ドクター・デスは安楽死を請け負うようになる。

ドクター・デスに依頼した人物は皆口を揃えて感謝の言葉を言い、恨み言を言う人間はいないのだ。ここが普通の殺人事件と異なる点で、主人公の犬養隼人は刑事としてドクター・デスを捕まえなければならない使命感と、透析治療を行う娘を持つ父親としてドクター・デスの行為を批判しきれない葛藤に悩まされている。


読了後、読者もドクター・デスの行為の是非を考えさせられる良作だ。



日本で安楽死は認められるべきなのか


ではこうした状況を踏まえた上で、日本では安楽死は認められるべきなのだろうか。

安楽死を認める最大の利点は、難病患者が耐えがたい肉体的苦痛や、いつ死ぬかわからないという精神的苦痛から解放されることだろう。


私の祖父は糖尿病で死の直前には身体中から出血し、呼吸困難になり、あまりの苦しみに暴れ、自分自身を傷つけてしまい危険な状態になったため、亡くなる数日前は祖父の身体を守るためにベットに手足を縛り付けられていたと母から聞いた。(10年以上前の話なので現在の医療現場は違うと思います)

母はその姿を見て、苦痛を感じ、何かにつけて私たち子供に「お願いだから延命治療はしないでくれ」とよく言う。

こうした苦しみが長期間続く患者に対し、安楽死という選択肢があることは、「もうダメだという時は自分で終わりを決められる」という安心感になり、ある種お守りのような機能を果たすのかもしれない。

また死の場面に大事な人が遭遇するのはなかなか難しい。私の祖父がもういよいよというときに、母は病院の1階の公衆電話へ走って行って、私たちに電話をかけ終え、急いで戻ってきたときには祖父はもう帰らぬ人となっていた。安楽死という手段があるならば、本人も、遺される側もきちんとお別れをすることができる。伝えられなかった言葉を胸に苦しむ人も減るだろう。


ただ恐れているのは一旦安楽死という手段をとれるようになると、安楽死をしなければならない風潮ができてしまうのではないかということだ。

これはあくまでも仮定の話だが、例えば介護が必要になると子供や周りに迷惑がかかるから安楽死を取らざるを得ないという形で、安楽死を選択する人が出てくるのではないかと思う。これでは社会の空気がその人を殺しているようなものである。

また安楽死を認めるとなった場合、安楽死をどこまで認めるのかということも当然問題になるだろう。

海外では統合失調症など重度の精神疾患を抱えている患者に対して、安楽死を認める事例がある。

日本は先進国の中でも自殺者が多く、精神疾患を抱えている人も多い。そうなってくると、例えば、闘病生活の中で苦痛に耐えきれず、精神疾患を患った場合、身体面では治療する手立てが十分あったとしても、長期の治療に耐えられず本人が死を選ぶケースも出てくるだろうし、こうしたケースで1度安楽死を許可すれば、身体は健康であっても精神疾患による安楽死を認めることも議題にあがってくるだろう。


より良い生があってこそのより良い死


治療法のない病気に冒され、安楽死を希望する人の中には、身体的苦痛ではない理由、「介護をさせるのが申し訳ない」「治療費を払うことができない」「身寄りがない」などの社会的・経済的理由による場合もある。

こうした人にとって1番にとるべき選択肢は果たして安楽死なのだろうか。


社会の中で、こうした難病と闘う人やその家族を支える仕組みが日本では構築しきれていないように感じる。日本では、介護は家族がやるべき、家庭のことに他人が干渉すべきでないという考えがいまだに存在しているのが、社会福祉の充実を阻害しているように思う。


ニュースでもたびたび介護に疲れた家族が、嘱託殺人をするケースを見るが、胸が痛くなる。もし介護に対して社会福祉がもっと充実していたなら、この人は家族を殺さずに済んだのではないかとやるせない気持ちになる。


安楽死の是非を1度議論する必要もある。しかしそれ以上に社会福祉の充実など、より良い生について議論されるべきなのではないかと思う。より良い生があってこそのより良い死である。

より良い死の議論だけを進めてしまうことは、社会による緩やかな殺人に他ならないのではないかと思う。



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