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おもうこと

性別に関してアンケートを取った。

自分が今まで生きて心の中で思い出すその人が
私の好きな人でありセクシュアリティなんだとおもっている。
だから生きていて変わるものでも何ら不思議じゃない。
不思議なのは性は固定されてると信じる人達が多い気がする。生まれてくる性(身体)は確かに選べないが好きな人や信じる人の性はもう自分の好みとその時の運としか言いようがない。
たまたま好きな人がそういう性別だった、あるいは自分が自分自身を許せる選択肢の上での性別が
『現時点の結果としての私の性別』な気がする。
この『結果としての性』に対してもう少し柔軟に考えて欲しいし変わる変わらないはもう少し自由でも良い。
人生の内で出逢いや別れを通じて心にいる人やモノが好きだと感じているのであれば性別は別に二の次だって良いはず。
選択肢は移ろうし、心も移ろうし、性癖や性別だって移ろう。ただそれに対して『おい、だらしな過ぎるだろ、もう少ししっかりしろよ』と言う人は一定数いる。
これを言う人はおそらく最初の『自分達の性別は固定されてる』ことを信じる人達で、それはそれで良いことだし自分の好きな性別が(言い方が意地悪だが)あることは素晴らしいことだしそれ故の苦労や葛藤もあるからどちらが幸せか不幸かとかではないが、
それが多数派だとしたら、私は少数派だろう。が、それを悲しいことだとは信じていない。悲しいとするのは自分が選択した好きな人に対して失礼だろうし、自分の信じた性別が間違いだとした時だろう。
ただ、自分の性別は固定されて絶対的だとする人達は、それを揺るがす人、つまりは性別と言う概念を軽く飛び越えてくる人にであってしまった時に(そもそも出逢わないと思うのであればそれまでだった話)ものすごく戸惑う。ものすごく狼狽える。人生の調子が狂う。様子がおかしくなる。自分の性別が移ろう人でもそうだから、なにより私がそうだったからこれは間違いない。
多数派少数派前提で話をしてしまったが、私は好きな人の主観的になりたい。好きな人の人生は間違いなくその人が主役だから主観的になるのは難しい。だからこそ、魅力的な人になりたいと願う。

ちなみにアンケート上での結果、私の性別は4択(りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ)の内、りんごがもっとも多く、次いでらっぱ、ぱんつの順でごりらはゼロ票でした。

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