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母が死んだ日の日記(2012年12月3日)

2012年12月3日。母が死んだ日のことを、私は日記に残していた。母親が死ぬなんて一生に一度のことだし、意識が途切れる瞬間まで一緒にいたのは私だけだったから、何か残しておいたほうがいいように思ったので。さすがに直後は文章に書くなんてできなかったけれど、少し時間が経ってから一人で旅行した波照間島の民宿で、悪天候で船が欠航になった日、パソコンに打ち込んだ。これはその時書いた文章です。

***

わたしは毎度のことながら朝寝坊だった。父と交代で母に付き添うため、日赤病院へ向かった。初めて助手席に誰もいないたったひとりの状態で車を運転した。心細かったのでナビをつけた。商業高校の近くのがれき付近で、病院から帰る父の車とすれ違った。

駐車はうまく出来なかった。見事に斜めになったが、まあいいかと思った。

病院に着いて、内科へ向かった。紹介状を持っていたので、てっきり内科のほうかと思っていたのだが、母はいなかった。受付の女性に調べてもらったら救急科だと言われた。日赤病院は紹介状がない場合すべて救急科にまわされる。救急科は2週間くらい前にも来た。近頃、母がめっきり食欲がなく、何度か点滴をしてもらっていた。救急科はとりあえず長時間待たされるし、先生も忙しそうで、あまりいいイメージがない。またか、と思って少しがっかりした。

救急科の待合室に母が居た。具合はだいぶ悪そうだったが、ここのところこういう状況が続いていたので危機感は感じなかった。ただ、少し息が荒かったのが気になった。「お父さんは?」「用事があるって」「ああ、だからちえがきたのね」少し話したあと、パンを買いに院内のミニストップに行った。待合室の母の隣に戻ると「あれ、ちえ、きてたの」と言われた。意識が混濁しているようだ。「さっき話したでしょ」「そうだっけ」椅子に座っているのもしんどそうだったけれど、横になってもなかなか落ち着く体勢がないようで、何度も横になったり起き上がったりを繰り返していた。呼吸は相変わらずぜえぜえとしていた。

「大丈夫?」「昨日夜吐いたの」「え!血も吐いた?」「少し」「何か欲しいものある?」「お水」

母の目が虚ろで、もしかしてもうほんとにだめなのかもしれない、と少し嫌な予感がした。けれど、夏に倒れたときにあまりにもけろっとしていたせいもあって、大丈夫だろうという確信があった。2週間前の検査でも、今までより悪くはなっていない、旅行へ行くのも問題ないと医者に言われていた。

待合のベンチで横になる母の横に座り持ってきた文庫本を広げた。角田光代の「彼女のこんだて帖」。シングルマザーの母親の話と、その子供の話が好きだった。それと、奥さんに死なれた男の人の話に、うるっときた。1時間か、2時間か、文庫本を1冊読み終わるくらいの時間、待合室にいた。

母はベンチで横になって、ぜえぜえと息をしていた。お水を500ミリのペットボトルで2本飲んだ。普段あまり水分はとらないから、珍しいなと思った。こんなにお水を飲むんだからきっと大丈夫だろうと思った。

父が用事から戻ってきた。ものすごく心配そうだった。これから仙台で会議があるから、一緒にいてあげられない、心配だ、と言っていた。旅行の話を少しした。

わたしがトイレに行って、戻ってくると母が鼻血を出していた。受付のお姉さんに鼻血の旨を伝えて、拭くもの(キッチンペーパーみたいな紙)を貰った。母が自分の身体や服よりまず待合室のベンチを拭いたので、わたしは苛立った。具合が悪いんだから、まず自分のことを気にしてよ。

看護婦さんがきて、その母の様子を見て、「こちらでやりますから大丈夫です」と言った。少し落ち着いてから、父が仙台へ向かった。

 
近くで、4歳くらいの男の子とその母親が小声で話していた。男の子は叱られているようだった。

母がのそっと起き上がり、男の子を見て、「怒られてる」と笑った。男の子は、病院で騒がないようにと母親に注意されていたようだ。それを見て、息をするのも大変そうな状態の母が、笑ったのだ。孫である姉の子どものことを思い出したのか、ただ単に叱られている子を見て和んだのかわからないけれど。母の目は虚ろだったのに、本当に、笑っていた。

どうしてそんな呑気なんだとまた苛立った。それと同時に、ああ、なんだかんだで、ほんとうに子ども好きな、面倒見のいい、いいお母さんだなあと思った。これまで、いろいろあってすごく大変で、恨むことも沢山あったけれど、わたしにとってはこの瞬間を見れただけで十分だ、ありがとう、と思ってしまった。色々あったけれど、やっぱり大切なお母さんだ。そう思ったら泣きそうになって、涙をこらえるので精一杯だった。どうせ泣いても、また母はけろっとして戻ってくると確信していたから、泣くだけ損だ。だから泣かない。悔しい。まわりだけいつも深刻で、本人だけが病気を病気と思っていなかった。さいごまで。

「ちえ、背中が痛い。マッサージして」と言うので、肩甲骨のあたりを押した。数回押しただけで、「もういい」と言われた。

そうしているうちに、診察室に呼ばれた。先生に「椅子よりベッドのほうがいいですか?」と聞かれたのでわたしは「横になりたいみたいです」と答えた。母に「ちえ、」と声をかけられた。荷物かなにかを預かったような気がする。それが母から呼ばれたさいごのわたしの名前だった。

ベッドが診察室の奥に運び込まれ、先生と少し話した。最近の母の様子、今の状況。わかりました、というような頷きの言葉を言われて、わたしは診察室を出た。

14:17
父からメール
「どうだ?」

返信
「まだ何も。診察室の中に運ばれたまま説明なし。ずっと待ってる」

文庫本を読み終えてしまったので、暇を持て余した。またミニストップにいってパンを買い、迷ったあげく「よくわかる仏教」というタイトルのムック本を買って読んだ。iPhoneの充電は切れそうだった。

1時間ほど経ってから診察室に呼ばれ、若い医者から母の容態の説明を受けた。聞いて、まずトイレでひとしきり泣いて、それからiPhoneの充電器を買いに院内のミニストップへ行った。手の震えが止まらなかったけれど、それでもまだ、母は呑気に目を覚ますだろうと、どこかで信じていた。

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