テセウスのスマホゲー

 好きなアプリゲームがある。あった。自分の中で『あった』と過去形にしたくない気持ちがあるのだが、頭の中では『あった』になりつつあることを冷静に認めている自分がいる。

 ソーシャルゲーム・スマホゲームの類は、作り手の異動や退社による体制の変更がままあり、その態を『テセウスの船』に擬え揶揄されているのを目にしたことがある。船を構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去の船と現在の船は同じものだと言えるのか。

 私は浅学であり、この問題に対して確固たる答えを持つことができない。けれど、例え同じ船でなくとも、置き換わったパーツがこれまでと同様のはたらきをし、航路が多少変わったとしても当初の目的地まで辿り着くならば、それはそれで構わないと思っていた。

 思っていた。そう、過去形なのである。

 置き換わったパーツは素材が違うのか、船内の空気にじっとりとした海水の湿り気が増した。

 航路が変われば波も変わる。癖のある荒波立つ海域へと進んだ船の揺れは厳しく、慣れた船員であっても悪酔いする姿を幾度も目にした。私も酷く酔ってしまった。

 海図はいつの間にか上書きされて、当初の目的地がどこだったのか今ではもうわからない。

 寄港した地で船を下りたり、救命艇に乗り別の船へと身を窶す船員の姿を、決して少なくはない数目にした。その一方で、船の揺れでリズムをとって踊り、酒を酌み交わし高らかに歌う船員も決して少なくはないのだ。

 続く船酔いで湿った床に横たわることしかできない私は、宴を続ける船員たちの邪魔にならないよう船室へと閉じ籠る。この船がどこに辿り着くか見てみたい。その一心で床にへばりついている。へばりついていた。

 最近では、

「この港町に寄港したら船を下りよう」

という算段を頭の片隅で始めてしまっている。心に決めた港町に船が寄せられるのが先か。それとも、目的地に辿り着き無事に航海を終えるのが先か。

「単なる趣味でしょ?しんどいなら無理に続けることないじゃん」

という声もあろう。私も他者に対し、そう思ったことが無いとは言えない。しかし、オタクにとって、趣味は生き様にも等しいのだ。

 止められるなら止めてるよ。

 口から零れた呻きは、波に飲まれて消えていった。今日も航海は続く。


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