海よ 俺の海よ
生まれも育ちも群馬県、北関東の平野に育まれ、田舎すぎない田舎の田畑や川原といった『ちょうどいい』自然に触れて育った海無し県の申し子ではあるが、故あってそこらの海無し県民よりも海に親しんでおりますの。おほほ。
母の生まれが南房総の小さな漁師町で、祖父母が存命の頃は毎年夏休みに泊まり掛けで遊びに行ったものだった。
祖母が浮気からの駆け落ちで音信不通となり(風の噂ですでに亡くなったと聞いた)、祖父が亡くなってから暫くは縁遠くなってしまっていたのだが、潮騒はどうにも海無し県民の魂を惹きつけて止まない。
ここ数年は、妹と共に地元で一等のホテルに泊まり地元の漁協直営の飲食店でうまい海鮮をいただきサイコーにゴキゲンな夏を過ごさせていただいている。
やはり持つべきものはマネーパワーである。もっとも、私はいわゆるワーキングプアに近い存在であり、マネーパワーを持っているのは歌舞伎町の腕利きスタイリストとして立派に勤め上げている妹のほうなのだが。
枇杷で少しばかり有名なその小さな町の海は、それぞれ違った表情を持っている。
レトロな桟橋がドラマや映画の撮影に使われたりアニメーションの背景になったりする海水浴場の付近は遠浅の穏やかな海で、干潮の時間帯にはふかふかと柔らかな砂が絨毯のように広がり、浜には大小様々色とりどりの貝殻や由来のよくわからない漂着物が流れ着き、目にも楽しい。
『ハチミツとクローバー』の巻末漫画で羽海野チカ氏も貝殻を拾いに訪れていた記憶がある。
砂が細かく柔らかなぶん水が濁りやすく、桟橋が観光地として整備されだした今はだいぶ綺麗になったのだがかつてはゴミも多く、ヒメスナホリムシにがぶがぶと咬まれたのにも嫌気が差してしまって幼い私はあまり好きではない海水浴場だったのだが、大人になった今ゆっくりと歩き回るにはちょうどいいことを知った。
浅瀬の透き通った水を小魚がぴゅんと横切り、ウミネコが静かに餌を探す。のんびりとして良い浜だ。
岬を挟んでその反対側にある海水浴場は磯と浜の中間のような海で、さざれのような砂は足裏にはやや痛いが、引き潮の時分にはそこらじゅうにタイドプールができ、生き物の観察にはもってこいだ。
イソギンチャクやヤドカリ、カニといった定番の生き物を覗き、水底でじっとしているドロメを手のひらで追い詰めて掬い上げる。生き物を観察し、時に捕獲するのは大人になっても楽しいものだ。
潮が満ちれば岩の間を縫うように潜り、ベラやカゴカキダイの控えめな見目の中にある鮮やかさに見とれ、岩の隙間に潜むタコと目が合い、目の前を横切るアジを捕らえようと追っては逃げられる。
食卓の皿の上に並ぶと小さく見えるアジも、水中眼鏡越しに泳ぐ姿は妙に大きく見えたものだ。
子供の頃の感覚だから、大人になった今見ると相応のサイズ感で見えてしまうかもしれないけれど。
比較的水も澄んでいて、岩場が平らかな場所を探せばのんびりと水面に五体を浮かべてたゆたうこともできる。大人になっても十二分に遊べる良い浜だ。
昔はあったシャワー設備が無くなってしまい、小さな船がずらりと並んでいるところを見ると、『遊び場』では無くなってしまっているのかもしれないけれど。
鯨が訪れることもあるという岬は、小さな山を越えた先にある。
水が付近の浜では一等澄んでいて、立地もあり特別な場所のような気がしていたが、その立地のせいで長らく行けていない。
黒船来航の時代から要塞としての役割を果たし今では自然公園となった岬は、山を上り下りして浜に下りるまでに30分は掛かるのだ。二十代前半に一度、祖父の墓参帰りにお供えのビール片手にサンダルとロングワンピースでぺたぺたと展望広場まで上ったことがあるのだが、今ではもうそんな蛮行は無理だ。
例年お世話になっているホテルに隣接しているので、次こそは足を伸ばしたい。そして、昔見た澄んだ海にもう一度沈みたい。
さっと思い返すだけでこれくらいのことが口から出てくる(正確には指先で打っているのだが)程度には、南房総の海が魂に染み付いている。髪に染み付く潮風の香りのように。
兎追いしかの山も小鮒釣りしかの川も無いが、雨に風につけても私はあの海たちを、おもちゃみたいに小さな公営住宅が立ち並ぶ鄙びた地区を、陽のあたる防波堤のあたたかさを、網を海面に沈ませながら堤防を歩いた時にちらついたウミホタルの光を思い出している。
海無し県に生まれ育った私の、ふるさとの海の話でした。
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