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サルティンボッカが食べたくて。 6

 ひさびさに充足した食事を過ごせた気がした。
 ゆったりと流れる穏やかな時間。途中、会計をして店を出てゆく客、慣れた雰囲気で来店する客、入れ替わりが繰り返されたので、多少長居をしてしまったかもしれない。
 「これ、生ハムを焼いちゃうってある意味斬新だよね」
 きっと妻ならそう言った。私はクスリとし「そうだね」と返した。
 まっさらになった皿を見つめて味の余韻に浸る。寂しさはなかった。
 店の入口付近の席に独り腰掛け続けた怪しい東洋人に対して、店員の男性は嫌な顔一つせずお会計をしてくれた。クレジットカードは便利だ。代金は一人分だけだった。
 「それはいけない」
 と私は金額の訂正を求めたが、とうとう聞きいれてはもらえなかった。その代わり、
 「きっと、また食べに来てください!」
 と強めの口調で言われてしまった。肩を抱かれ、背中をばんばんと叩かれながら見送られる事になった私は、相当落ち込んでいたふうに見えたのだろう。ある意味、記憶に残る客となったに違いない。
 おとぎ話のような石畳の街並みを歩きながら、私は想いを巡らせる。また、食べに来れるだろうか。今回の遠征だけでも破産だ、とは言わないが、かなりの出費であることは確かなのだ。しかもそれが料理を一品食べるためのものであるのだから、贅沢にしても程がある。
 サルティンボッカは味の濃い料理だった。というよりも、付け合せの蒸し野菜と一緒に食べてはじめて、サルティンボッカという料理が完成するのだと感じた。手間を掛けず気軽に作れる(らしい)が、その実なんと計算し尽くされた料理であろうか。
 ネットの写真で見たように、鶏肉や豚肉を使ったサルティンボッカもあるのだろう。季節によって付け合せの蒸し野菜も変わるはずだ。味付けの違いも店によって変わるとしたら、あの日妻が言ったように、見様見真似で「あー、こんな感じなんだ」で済ませなくて本当に良かった。
 このまま帰宅すればいつもの日常が待っている。妻のいない、漠然と過ごすだけの日常が。それに耐えられるだろうか。今は、妻の支えと料理の余韻で後押しされているが、それも、いつまでも続く訳ではないし、忘れてしまう瞬間だってあると思う。
 それでも、いつかまた、必ず帰ってこよう。
 悩むことはない。ただ飛び込めばいいのだから。
 「ーーあ。タクシーを頼むの忘れた」
 黄昏色に染まりつつある田園風景の田舎道を、なんとかなるだろう、という気分で私は、立ち止まらずに歩いて行った。


おわり。


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