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サルティンボッカが食べたくて。 5

 堪らず号泣し、崩れて、入口で蹲る奇っ怪な東洋人にも、店員の方は優しく接してくれた。
 「妻が。。」
 辛うじて言葉になったのはそれだけだったし、日本語では意味すらも伝わらなかっただろうが、窓際のテーブルを指差す私を抱き起こし、妻がいた対面の席へと座らせてくれたのだった。
 いまだ止まらない嗚咽と涙で滲む向かいの席には、当然ながら誰も居ない。しかし、優しく射し込む白いカーテンを透した陽射しの中には、ちゃんと、そこに妻がいた空気を宿していると思えた。
 「Are You OK?」
 何度も天井を仰ぎ見ては止まらない涙を、袖口で拭う私に、店員の男性はハンカチを差し出してくれた。私はなんとか、発音するもあやしい英語で「Sorry」とだけ応え、慌てて翻訳機を取り出し「本当は妻とここに来たかった」と打ち込んだ。この翻訳機には音声認識機能が備わっているが、今はちゃんと喋れる自信がなかったからだ。
 手の中の液晶画面を覗き込んだ店員は、突然、翻訳機も間に合わない流暢な、おそらく現地の訛というのだろうか、ほとんどリスニングすら出来ない言葉で一方的に話をすると、最後に、左肩を強く握ると揺すり、叩き、
 「buon pasto」
 と言って去っていった。
 最後の言葉を拾ったであろう翻訳機には「よい食事を」と表示されていた。
 笑われたのか、励まされたのか。何を言われたのかはまるで分からなかったものの、悪い気はしなかった。少し残る肩の痛みが歯止めになったのか、溢れる涙もいつの間にか引いていた。呼吸が落ち着くのを待って、顔を上げる。そこに妻はいなかった。
 私は徐ろに手を上げ店員を呼んだ。
 「すみません。サルティンボッカを一つ」
 「かしこまりました。以上でよろしいですか?」
 「あと、何か料理に合うワインを」
 店員はもう一度かしこまりました、と頭を下げ厨房の方へと戻っていった。私が落ち着いたのが分かったのだろう。先程までの家族や友人に接するような態度は消え失せて、いち客人に対する屹然とした物腰は、好感がもてた。
 やがて、料理とワインが運ばれてきた。
 私の目の前に一皿と、対面の席に一皿。
 「ーーえ」
 思わず顔を上げて店員を見つめてしまう私に、彼は気づいた様子もなく、サッと引き返して行ってしまった。
 熱い湯気がうっすらと立ち昇る、共に遜色のない料理。私の翻訳が間違っていたのだろうか。それはそれで構わないか。元々、旅費が一人分しか掛かっていないのだから。
 私はワイングラスを持つと、対面のグラスの縁に軽くノックさせた。澄み切った響きに少し照れながら、グラスの中身をコクリとやった。
 改めて料理を見る。ネットで少しだけ検索した物とはだいぶ違うと感じた。画像では鶏肉や豚肉を薄く伸ばして生ハムを乗せて焼いた、と書かれていたが、これは何の肉だろう。ソースに浸されてくたりとしたハーブは、確かセージと言っただろうか。一緒に食べてしまっていいものなのか、それとも横に退けてしまうべきなのか。
 とりあえずナイフを入れ、一口分を切り取ると、肉と生ハムとの間にセージが挟み込まれていることが分かった。どーやら一緒に食べてしまって構わないものらしい。
 「あ。。」
 そーだ。サルティンボッカは、口へ飛び込むもの。料理を前にして四の五の言っていたら、それこそ妻に怒られてしまう。私はフォークに刺さった切れ端を文字通り口へと飛び込ませた。
 !!
 なんといえばいいのだろう。濃い。塩気が利いているのだけれど乱暴なしょっぱさではなく、肉の脂と旨味が濃縮されたソースに生ハムが持つ燻された塩気が相まって、口の中から頭の中まで一気に突き抜ける旨い、という感想に、自然と唾が噴き出してくるのを感じていた。肉は牛肉だ。しかも鶏肉のように柔らかい歯ごたえは、子牛のヒレ肉かもしれない。そして、なにより無視できないのがセージだ。
 私はセージというハーブは食べたことがないはずだった。それなのに、どこかで味わった事がある風味だと脳が思い出そうとしているのだ。香草独特の青臭さはあるものの、それがまったくイヤではなく、むしろこれがあってこそ料理は完成するのだと理解できる。
 懐かしい味。故郷の。私はあの芸人の台詞を思い出し、独り笑いを噛み殺していた。
 「これが、サルティンボッカ。。」

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