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サルティンボッカが食べたくて。 4

 私はいま、舗装されていない土の道を歩いていた。空港からタクシーを拾い、翻訳機だよりの拙い英語を駆使し、運転手の男性に「オススメのサルティンボッカが食べられる店がある街まで」と伝えた。走るタクシーが一旦郊外へ出た時には少しだけ焦ったが、すぐに別の街が見えてきて、歩きたいからと途中で降ろしてもらうことにした。
 私は今、イタリアにいる。
 広島での足で、そのまま空港へと向かった。パスポートは車のダッシュボードに入れたままであったし、道すがら会社へ電話をしたのは我ながら律儀だと思った。電話を代わってもらった上司は、あと二、三日休みたいと告げた私に「あまり気に病まず、ちゃんと帰ってこいよ」と言っただけだった。仕事に取り掛かっている間は気が付かなかったが、案外人情的な職場だったのかもしれない。
 必要のなくなった包丁は、適当なビニール袋で包んで空港のゴミ箱へ捨ててきた。清掃員には迷惑をかけてしまうかもしれないが、間一髪、人生を踏み外してしまう直前に失念出来た人間の行動だ。そこは多目にみてもらいたい。
 タクシーの運転手は、急に降りると言い出した私にも嫌な顔一つせず、簡単な道案内と店の名前が書かれたメモを渡してくれた。
 運が良い。私は運が良い。これまでの人生で今が一番ツイているとさえ感じていた。
 広島で目的の芸人とすぐに会えたこと。そして空港で、予約もしていないイタリア行きの便にちょうど空きがあったこと。海外旅行をする身なりでも、手荷物でもなかった事も幸いしたのかもしれない。
 「良かったのか?実際どーかしてるだろ」
 私は一人でいることを良いことに、声を出して笑った。ポツポツと民家であろう建物もあったので、誰かに見られていたかもしれないが、そんなことすら気にならなかった。
 何も難しいことはない。ぽんと口へ飛び込めばいい。
 では、飛び込んだあとはどーすればいいのか。それは、まだ分からない。
 まるで絵画に描かれていそうな原風景の田舎道は、日本のそれとは空気からして違うと感じた。それに、日本で絵画に描かれたような田舎道が残っている場所はもうほとんどないだろうに、この国では、この景色が当たり前のように広がっていた。
 街に着く。教えられた記憶を頼りにノスタルジックな通りを曲がると、メモにある名前の店があった。日本の飲食店のイメージとはまるで違う佇まいの店は、一見すると飲食店だとは思わないかもしれない。
 「ああ。。」
 それでも、もしも、私達がここに来ることが出来ていたなら、きっとこの店を選ぶだろう。なんとなく、そう思った。
 「ずいぶんと遅くなってしまったな」
 年代を感じる、すり減って滑らかにてかりを宿した真鍮のドアノブを掴むと、心地よい重みを押しのけながら引いて、店内へと身体を預けるように潜り込ませる。
 「やっと来た」
 カーテンの掛かった窓際のテーブルに腰掛けた妻が、背もたれ越しに振り返っていた。
 「道に迷っちゃった?」
 呆れるように笑いかけてくれるその笑顔に。
 「ほら。。早く座って」
 私は、

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