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【選挙ウォッチャー】 多古町議補選2022・分析レポート。

2月1日告示、2月6日投開票で、多古町議補選が行われました。菅沢久さんが町長選に立候補することに伴い、空いた議席を埋めるための町議補選になりますが、ここには新人2人が立候補し、なかなか白熱した戦いを繰り広げることになりました。多古町議選は統一地方選のスケジュールで行われていますので、次回は2023年4月になり、任期は1年くらいです。今回はあんまり取材ができておりませんので、それぞれの政策を簡単にご紹介しながら、コロナ禍で市議や町議が何をできるのかを考えます。

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萩原 宏紀 32 新 無所属
宇井 伸征 44 新 無所属

今回、立候補してきたのは、街でそこそこ知名度があると思われる2名でした。萩原宏紀さんは「多古米王子」と呼ばれ、大学卒業後に営業職として働いた後、カフェスタッフを経験し、Uターン帰省。実家のコメ作りを手伝った後、農業法人を立ち上げ、稲作とネット等の直販を運営するようになったという人物です。宇井伸征さんは、おにぎり専門店「多古はちろう商店」を開業し、多古米の魅力を広げようと奮闘した人物。いずれも農業を中心としたビジネスを展開している男たちです。


■ 政治家の5類感染症論がダメな理由

オミクロン株が猛威を振るうようになって、まもなく丸2ヶ月が経過しようとしています。この2ヶ月間、まったく思い出らしい思い出もなく、選挙の取材もままならないので、売上は激減しています。僕も「こんな生活、やってられるかよ!」という気持ちではあるし、新型コロナウイルスがなかった頃の生活に戻りたいです。だから、若くて健康な人ほど「どうせ死ぬのは老人と基礎疾患のある人だけなんだから、自分たちが感染する可能性は覚悟するから、もうインフルエンザみたいに扱って、俺たちを自由に生活させてくれよ!」という気持ちにもなるのでしょう。世の中の「5類感染症にするべき」と言っている人たちを見てみると、単なる分類上の枠組みの話をしているのではなく、概念として「インフルエンザと同じぐらいの気を付け方にしてほしい」と言っています。この理論はこの理論で破綻しているわけなのですが、ここで一度、僕の考え方と「5類感染症にするべき」の人たちとの考え方の違いについて、改めておさらいしておきたいと思います。

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人間なんていうものは、しょせん、自分勝手な生き物です。本当は高齢者や疾患のある人たちの生活のことも考えた方がいいですが、しかし、この人生の主人公はあくまで自分です。赤の他人の爺さん婆さんがどうなったところで、僕たちの生活には1ミリも関係ありません。今日も世界のどこかでは大切な人が亡くなって悲しんでいる人がいるし、メシが食えずに死んでいる人もいます。だからと言って、24時間365日、その人たちのことを思って生きているわけではありません。なんなら、この瞬間に「おっぱいパブ」にいたとして、おっぱいをペロペロしながら「とはいえ、この瞬間にどこかの救急救命センターで死にかけている人がいて、その家族が悲しんでいるかもしれない」なんて考える人はいないわけです。だから、一般ピープルが「もう新型コロナウイルスに翻弄される毎日を過ごしたくないよ!」と思うのは自然なことですし、「ぼちぼちインフルエンザと同じように扱ってもいいんじゃない?」と言って、「そんなことをしたら、おじいちゃんとかおばあちゃんが死んでしまうじゃないか」と反論されて、「知らんがな。どこぞの知らない爺さん婆さんがどうなろうが、俺の人生じゃない!」と言ったとしても、そう言いたくなってしまう気持ちが分からないわけでもありません。

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しかし、政治家で「インフルエンザと同じように扱うべきだ」と言っている人たちは、基本的に脳味噌が沸いています。一般ピープルにとっては、どこぞの爺さん婆さんが死んだところで人生に関係ないかもしれませんが、政治家の仕事というのは「すべての人の命を救うこと」だからです。これは医師が「ぼちぼちジジィなんだから死んでもいいっしょ!」と治療を放棄するようなもの。誰かの幸せが、誰かの犠牲の上にあってはならないのです。政治家がやるべきことは、一人でも多くの人が病気にならず、一人でも多くの人が亡くならず、かつ、経済へのダメージを最小限に留めること。凡人にはなかなかできない「超ハイレベルな仕事」であると言っても過言ではありません。総理大臣も、各都道府県の知事も、あるいは市長も、全員が「めちゃくちゃ仕事のできる人」でなければならないのです。そして、もし能力が低かったとしても、まだ「一人でも多くの命を助けるために頑張るんだ!」という気持ちさえあれば、まわりの優秀な人たちが助けてくれて、人が死なないための取り組みができると思います。ジャンルは違いますが、僕がN国党との戦いにすべて勝っているのだって、僕の能力が高いからではなく、他の人より多少の胆力はあるかもわかりませんが、さまざまな知識やスキルを提供してくれる人たちのおかげで結果を出せているわけで、能力のない人間でなければ戦えないわけではありません。その上で「5類感染症にする」という選択は、若くて健康な人に限っては自由が得られるかもしれませんが、そうではない人たちは、今まで以上に慎重な行動が求められるし、今まで以上に命のリスクを大きくさせられてしまうのです。つまり、弱い人ほど犠牲を強いられることになります。社会というのは、もともと弱い人にコストがかかる仕組みになっています。働けない人に生活保護をするのも、バリアフリーの工事をするのも、高額な医療費の一部を免除するのも、すべてコストがかかります。世の中というのは、健康で働ける人たちの方が多数派なので、こうした弱い人たちにコストをかけない選択をすると、それは「優生思想」につながり、最終的に「ファシズム」に行き着きます。「ファシズム」が最低最悪の思想だったことは歴史が証明していますが、社会というものが「弱者を助けることで万人の幸福を追求するものである」ということを忘れてはなりません。そして、このオミクロン株は、確率は低くても10代で亡くなることはあるし、長期的な後遺症で悩まされることもあります。確率は低くても、そういう人は生まれるのです。だから、僕たちは「知恵」「科学」を駆使して、こうした被害を少しでも減らす必要があるわけで、考えることを放棄してはなりません。解決策を導くことです。「ある程度の犠牲を受け入れる」という方法は、単なる「怠慢」でしかないのです。


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