見出し画像

「哲学って何?」

皆さんこんばんは、Chicoです。

「哲学って何?」「どうやって始めるの?」とよく聞かれるので、私なりの考えを書いてみます。


光栄なことに私は「哲学者」と呼ばれたりしますが、
これは、半分正解で半分不正解です。
哲学者の時もあるし、哲学者ではない思想家の時もあるからです。

はい。そうなんです。
私は哲学と思想は対置する、と思っています。
皆さんはどう思いますか??


「いや、そもそも哲学って何か分からんし。」
という方が、本稿を読んでくれていると思います。

ということで、
哲学と思想は対置するかは、今後の問いに据えて
今回はそもそも「哲学って何?」を問います。


1. 「哲学って何?」

哲学を一言で言うならば、
「答えの出ない問いを問い続けること」。


哲学は答えの無い学問と表現されることが多いですが、
ある程度の答えはあり、間違いもあると思います。


では、「答えの出ない問い」とは何でしょうか。

「世界に真理(絶対に正しい答え)はあるの?」
「幸せって何?」
「自分は何者なの?」
「私は何のために生きているの?」etc…


そもそも」の問い、あるいは、
本質(一番大切なもの)」の問いと言い換えることが出来るかもしれません。


みなさんも一度は考えたことがあるかもしれません。

答えは出ましたか?

答えが出た方、答えが出なかった方、答えだと思ってたら間違ってた方…

断言します。
このような問いを考えてきた貴方は、もう哲学者です!
おめでとうございます!!


繰り返しになりますが、
哲学とは「答えの出ない問いを問い続けること」です。



ここで、私が好きな例え話をご紹介します。

貴方は出口の見えない桟橋を一人で歩いています。

一人で桟橋の先に向かって歩く、
人生のような桟橋です。
その終わりには何があるのでしょうか。

終わりはどこなのか、果たして何かあるのか、桟橋の先はぼやけていて見えません。
それでも、一歩、また一歩、前進します。

すると、海の中から声が聞こえます。
「ここに答えがあるよ」
「その先は苦しいよ」
「こっちなら終わることはないよ」...
このような海の中の甘いささやきにも、疑問を抱き続け、ただただ歩き続ける。


このように、桟橋を進み続けることを哲学と呼びます。
ここで、ささやきに応じて海に飛び込むことを信仰と呼びます。


(私は信仰や宗教は決して悪と思ってませんし、合理的思考・尊厳の対象と考えています。)



ちなみに、
哲学の問いは2種類に分けることができます。

”What”の問い
ex)世界には何が存在するの?
そもそも世界って、存在って何?

”How”の問い
ex)世界はどのように存在しているの?
人間はどのように生きるべき?


哲学とは人間による知性の営みなのですが、

答えを出すことが必ずしも正しいわけではない。
答えがある前提でしか考えられない人間の脆さ。

そんなことを教えてくれる先生みたいな存在だと、
私は感じています。

(うん。お願い。怖がらないで。)
(どうか読むのやめないで!)


2. 「哲学ってどうやるの?」

さて「私って哲学者だったんだ!」と気づいた貴方。
この章で読むことはありません。次章へどうぞ。


一方「俺哲学者じゃない。オワタ」と思った貴方。
この章を飛ばさないで下さい。
落ち着いて下さい。
この章を読めば、きっと貴方も哲学者になれますから!


ということで、
「どうやったら哲学できるか?」説明します。

まずは、以下問いから1つ選ぶ。
・幸せって何?
・なぜ死んではいけないの?
・私は存在している?
・人間らしさって何?

STEP1:問いに対する貴方の答えを書く。
STEP2:上記答えに「そもそも、それ何?」と問う。
STEP3:貴方の答えを書く。

STEP χ:STEP2に戻る…
以下繰り返し。

「出来ない〜」「分からん〜」という方ご連絡下さい。
私と一緒に哲学始めましょう!Let's 哲学!!



問い続けられた皆さん、おめでとうございます!
晴れて、哲学者デビューです!


しつこいようですが…
哲学とは「答えの出ない問いを問い続けること」です!


決して終わりませんし、
答えが出たのなら、
貴方は哲学桟橋から飛び降りています。


3. 「哲学って役に立つの?」

ついに、最終章まで来ましたね。
最後に「哲学って何か分かったけど、役に立つの?」という問いを考えて終わりましょう。


(実はこの章を書きたくてnote出しました)
(読者のみんなには秘密です)


第1章で、哲学は人間の知性の営みだというお話をしました。

哲学の歴史を振り返ってみましょう。
哲学の祖をソクラテスとすると、
紀元前5世紀の古代ギリシャの大先生なので、
2400年以上も続く営みだとわかりますね。



実は「哲学って役に立つのか?」という問いすら、
哲学的問いかもしれませんが。


Googleで「哲学者」と検索してもらうと、
沢山の大先生が出てきます。


彼らは時間、存在、幸福、人間、命などの本質
問い続けた偉人達です。それも、死ぬまで。


私には死ぬまで理解できないような、
高度な問い方と答え方を残した先生が沢山いるのです。
うわ、もう哲学者しか勝たん…としみじみ感じます。


そんな大先生が、人生をかけて答えようとした問いや、
死ぬ間際の答えらしき答えは、
とても、、とても、美しいです。美の極みです。


その問い方や答えを、
当たり前のように学べる今日という存在に感動します。


(はい、確実に語りすぎましたね。)
(絶対みなさんを置いていってる。)
(一旦深呼吸。。)



さて、2400年が過ぎ、今日の私たちは、果たして

「世界の真理を見つけたでしょうか?」
「幸福を手に入れたでしょうか?」
「自分が何者か見出したでしょうか?」
「生きる目的を見つけたでしょうか?」

半分Yesで、半分Noでしょう。

2400年間、人間達は問い続け、
その答えらしき答えを仮説とし、
検証を繰り返してきました。


一人の哲学者が死に、
また一人が生まれることを繰り返しながら...。



しかし、哲学者たちの答えらしき答えは、
世界の誰か、ある時代においては間違いとされ、
また時代を超えて答えかもしれない、と復興を繰り返してきました。



ここで再強調したいのは、
「答えを出すことは必ずしも正しいわけではない」
ということです。


個人的な思想ですが、
2400年も人間が思考し続け答えが出ないということは、一つの答えあるいは真理を出すには、
この地球、社会、人間ひとりひとりは複雑すぎるのだと思います。


単純化や合理化、論理的分析、科学的検証を以て答えを出すことが悪と言いたいのではなく、
答えらしい答えにすぎないのです。


答えらしき答えが出ても、
どこかの哲学者によって問い直されうるのです。


だとすると、今日私たちが出来ることは、
2422年目の一人の人間として知性を営み、
周囲の人々と一緒に答えらしき答えを検証すること、
に尽きるのではないでしょうか。


つまり、これは哲学そのもの。
「答えの出ない問いを考え続けること」ではないでしょうか…


あれ??待って。
これって、自分探しじゃない?
いや、家族の姿じゃない?
いや、科学の探究じゃない?
いや、会社の経営じゃない?
いや、政治への参加じゃない?
いや、社会の再構築じゃない?




もうこれ以上、哲学がどのように役に立つのか、
説明は必要ないかと思います。



今回は、そもそも「哲学って何?」を問いに、
と〜っても噛み砕いて説明してみました。

次回以降は大先生を取り上げて、
何を問い、何を答えらしき答えと考えたのか説明し、
なぜ先生の答えが今も生きているのか、問いてみたいとおもいます。


ちなみに、次回はソクラテスの哲学を濃く書いてみたいなと思ってます^^



今回のテーゼ

(毎回設定しますので是非コメント欄やDMなどで哲学会しましょう!)

”道徳なき経済は犯罪であり、
経済なき道徳は寝言である。”
 

二宮尊徳

私が事業を世に出し経済を行う者として、常に肝に銘じている、二宮大先生のお言葉です。

「”道徳なき経済”、あるいは、”経済なき道徳”とは、
どのような状態でしょうか?」

この記事が参加している募集

わたしとポッドキャスト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?