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故マービン・ミラー氏を偲んで

2020年アメリカ野球殿堂の時代委員会で故マービン・ミラー氏とテッド・シモンズ選手が選ばれた。

今回は故ミラー氏の功績を振り返ることにする。

故ミラー氏は1966年~82年までMLB選手会の選手会長を務め、同選手会を「世界最強の労働組合」と呼ばれるまでにその地位を高めた。

MLB往年の解説者であったレッド・バーバー氏は亡くなる直前に野球の歴史を振り返り、ベーブ・ルース選手とジャッキー・ロビンソン選手と並び、マービン・ミラー氏の功績が重要であったと述べた。

故ミラー氏とはどのような人物であったのか。

彼は1917年にニューヨークのブロンクス地区で生まれた。

父アレクサンダー氏はマンハッタンにあるロウアー・イーストサイドで衣服の外交販売員を務めていた。

母ガートルード女史は小学校教師で、ニューヨーク市公立学校の教員組合の組合員でもあった。

彼が生まれたブロンクスといえばヤンキースタジアムのある場所だが、当時はまだベーブ・ルースがニューヨークへ来る前で、ヤンキースはマンハッタンにあったポログラウンズをニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と共用していた。

その後、同じニューヨーク市内のブルックリンへ引っ越し、そこで育った。

ブルックリンは当時、ジャイアンツの永遠のライバルであるブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)がフランチャイズとしていた地区である。

1938年に私立ニューヨーク大学を卒業すると、専攻した経済学の知識を活かし、第二次世界大戦中は戦争の遂行を妨げる可能性のある産業(自動車産業、海運、鉄道、航空、電信、鉱業など)の労働が中断されぬように労使紛争に奔走した。

戦後は国際機械工労働組合や全米自動車労働組合で、1950年からは全米鉄鋼労働組合のスタッフとしてキャリアを積むと、やがてエコノミスト、交渉責任者として労使問題を主導するようになった。

1966年春にMLB選手会が労働組合に改組された時、彼は初代専務理事に就任した。

MLB選手会は1953年に設立されていたが、労働組合として組織化されてはいなかった。(初代会長はボブ・フェラー投手)

彼はその組織化にあたって主導的な立場を担っていくことになる。

まず1968~69年にかけて初めて労働協約を作成するにあたって、彼は球団オーナーたちとの労使交渉において、最低保証年俸を7千ドルから1万ドルへと大幅なベースアップを実現した。(当時、米国の男性平均年収は6430ドルであった)

そして彼の名を一躍有名にしたのが、69年オフに起きた「カート・フラッド事件」である。

セントルイス・カージナルスの中堅手カート・フラッド選手はフィラデルフィア・フィリーズへトレードされることを知らされたが、黒人選手であるフラッド選手は当時まだ差別が根強く残るフィラデルフィアへの移籍を嫌った。(フィリーズはナ・リーグで黒人選手のデビューが最も遅い1957年で、実にジャッキー・ロビンソンのデビューから10年後である)

選手たちの移籍の自由を制限する保留条項が当時からあり、フラッド選手にはトレード拒否権が無かった。

ミラー委員長は保留条項が自由競争を阻んでおり、反トラスト法に違反しているとして、MLBコミッショナーであるボウイ・キューン氏を相手に訴訟を起こした。

翌70年シーズン、フラッド選手は形式上フィリーズに所属しながらも試合には出場せずにシーズンを終え、同年オフにワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)に再度トレードとなったが、翌71年のシーズンは1年間のブランクの影響のためか、僅か13試合の出場で現役生活を終えた。

裁判の方も72年には敗訴が確定したものの、この事件を機に選手会の結束力は高まっていったという。

また72年には開幕からMLB史上初となるストライキを断行し、要求していた選手年金への50万ドルの増額と、年俸調停制度の導入を実現した。

そして74年オフ、来季の年俸額に不満を抱いていたアンディ・メサースミス投手(ロサンゼルス・ドジャース)とデーブ・マクナリー投手(ボルティモア・オリオールズ)に対して、ミラー専務理事は契約書への署名せずに来季のプレーを勧めた。

2投手はミラー専務理事の助言通り契約書に署名せず1シーズンをプレーし続け、75年オフに調停を申請し、自由契約(フリーエージェント)の立場を勝ち取った。

史上初のフリーエージェントは、74年に所属したオークランド・アスレチックスから契約通りの給料が支払われなかったとして調停を申請したキャットフィッシュ・ハンター投手だったが、メサースミス投手とマクナリー投手の事例がフリーエージェント制度の確立により大きく寄与したと言われている。

81年にオーナー側はフリーエージェントの形骸化を目論見、人的補償制度の導入を図ったが、レギュラーシーズン2度目のストライキを断行し、限定的な補償ドラフト制度に留めた。(この制度は85年に廃止される)

ミラー氏の専務理事就任時の1966年は1万9千ドルであった平均年俸が、退任した88年には約17倍の32万6千ドルにまで上昇した。

故ミラー氏の功績は、MLB選手の待遇を改善したことであり、更にはNPBなどの海外リーグや他のプロスポーツにも大きな影響を及ぼしている。

しかしオーナー側からは蛇蝎のごとく嫌われていた時期もあり、旧ベテランズ委員会の投票、そして現行の時代委員会の投票で7度も殿堂入りを阻まれていた。

今回は8度目の挑戦であり、まさに七転び八起きである。(今回も16人中12人の得票でギリギリの殿堂入りであった)

惜しむらくは既に2012年にミラー氏は亡くなっており、殿堂入りの栄誉に浴することができなかったことである。

同氏が選手会理事就任当時、1967年のメジャーの平均年俸は1万9000ドル(約684万円、当時の外国為替レート)。それが今では400万ドル(約4億3200万円)を越える。単純計算で211倍になったのもミラー氏のおかげだ。亡くなった12年、タイガースに在籍していたJ・バーランダー(現アストロズ)は「彼の功績に、皆が感謝している。今の我々があるのは、彼の遺産があればこそだ」とコメントを寄せていた。

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一緒に殿堂入りすることになったシモンズ氏は、ストライキなど1970年代から80年代の労使紛争を振り返って「マービン(ミラーは)は、一人一人の選手が心を許すのを辛抱強く待っていた。そして最後に、みんなが心を開いた時に、それをすべてまとめ(労使交渉に向かって)行動に移しました」と、述懐する。

※この記事は多くの部分を故マービン・ミラー氏のWikipedia英文記事から引用しています。


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