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【無料版】それはゴミを作ってるのと同じだ

この記事は、こちらの有料記事をリライトしてセンシティブな内容を省略したものです。

「見てもらえないようなモノを作るのはゴミを作ってるのと同じだ。」

言い方の是非はともかく、この言葉は広告市場のシビアな側面を端的に表しているとも言える。

わかりやすく例えるとすれば、新聞に入っているセールのチラシ。見てもらえなければ、そのまま古紙回収に直行、良くて掃除の役に立って終わりである。

作り手の想いと労力は、日の目を見ないままゴミになるのが人の世の常である。むしろ日の目を見ない努力をしめやかに続けることこそが「ケ」、すなわち日常だ。

「絶対に見てもらえるもの」を作ることは可能だろうか?

見てもらえる確率を上げるためのテクニックや心構えは、世の中に散らばっている。

まず、人の目に触れる頻度を上げること。
AC JAPAN(公共広告機構)はTVCMによって間違いなく認知度を上げた。商業戦略としてではなく、神の気まぐれによってだが。
実際には、広告の物量には限界があるし、広告圏の広さに利益が比例するとも限らない。

つぎに、人が見たくなるモノを作ること。
これは非常に曖昧で複雑な問題だ。
心理的効果を狙ったデザインの方法論は、特定の視点に基づく「統計」の結果であり、こうすれば良いかもね、という「傾向」しか示さない。(だから無視して良いという話でもない。少なくとも業務上の共通言語として必要である)
射幸心を煽るようなテクニックも、法律や条例、公序良俗を守るための制限を受ける。
その人のことはその人にしか分からないし、あるいはその人自身にも分からない。
「人が見たくなるモノ」があるのではなく、我々が「人が見たくなったモノ」を結果的に観測しているのだ。

「…を作るのはゴミを作ってるのと同じだ。」

実際には、ゴミを作りたくて作る人間などいない。一生懸命作ったものが結果的にゴミになってしまうだけである。

言ってしまえば、ゴミを作ることこそがモノづくりの醍醐味である。

かのエジソンは「失敗」について多数の名言を残している。

私は失敗したことがない。
ただ、1万通りの、
うまく行かない方法を
見つけただけだ。
- トーマス・エジソン -

「ゴミに価値がない」という考えは、きわめて即物的である。

ただ、製造業であれば、当然ゴミや不良品は損失として計上される(それでも一定量の産廃は発生するが)。

広告やコンテンツを工業規格製品として扱い「無駄かどうか」問いたいのであれば、食品や自動車の工場のような盤石の生産ラインが出来上がっている必要がある。
しかし、大抵の現場はマネジメントが行き届かず、仕事はマンパワーに委ねられ、流動的で不安定な生産体制で回っているのだ。

巷の店舗は「見てもらえない」=「機会損失」を回避するために色々なテクニックを凝らす。それでも、人はその時必要ない情報は見ないし、認識することも少ないし、記憶にも残らない。

情報は最低でも7回繰り返さないと人の記憶に残らないという。

WEBページや動画サイトは広告で溢れかえっていて、私たちWEBユーザーは同じ広告を繰り返し見ている。その物量はテレビコマーシャルより多いかもしれない。

本当に欲しいものがあれば、自らキーワード検索するなどの行動を起こすのだが、その「キーワード」が自社や自社サービスの名前(指名ワード)であって欲しいと言う願いから、各社広告戦略にしのぎを削る。

それでも、コンバージョン率は良くて10%。チラシで例えれば、10万枚刷って9万枚はゴミになる。

「…ゴミを作ってるのと同じだ。」

いいえ、違います。
作ったモノがゴミになるのは、前提の話であります。それでもなんとかしようと頭を捻った結果として、モノが出来上がるのです。

特にクリエイティブな仕事をする上では、「ゴミ」を作ることを断罪する前に、エジソンの言葉を思い出す余裕が欲しいものである。

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