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深読(3) - 年齢差別からは逃げるが吉

深読みしたがりによる脳内言語化エッセイです。

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どうやら、ドレスコード宜しくエイジコードとでもいうようなエチケットの信奉者が居て、彼らはおしなべて社会のメインストリームの近くに位置しているようだ。

毎度おなじみ「xx歳で結婚してないのはヤバイ」に始まり、「若いのに元気がないのは情けない」「年長のベテランは万能の人格者でなければ(我慢が)ならない」という具合に、感情論で偏見の嵐を巻き起こすのが彼らの得意技である。

私はアラフォーの独身男だ。
人一倍コミュニケーションが不得手である。うつ状態、パニック症、不眠症がもとで会社を辞め、現在は無職である。

若い頃は恋愛やコミュニケーションコードへの適応に腐心していたものの、自己との乖離がじわじわと広がっていき、限界を超えたためにフェードアウトしてしまった。いわば自分に嘘をつき続けた反動である。

すると、ある時を境に私の年齢のことを揶揄する人々が現れ始めた。いや、当人たちは揶揄しているつもりなどなく、至って真剣に私を叱責・指導しようとするのだ。

「その歳ならこれぐらいできなきゃ」
「あなたのために言ってるのに」

はっきり言おう、心の底からうんざりである。

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うつ、発達障害、セクシャルマイノリティーなどについての知見は、webをはじめ新聞、雑誌、テレビなどでも頻繁に発信されるようになった。
同時に、それらの問題を抱える人々が、いかに既存の社会倫理から爪弾きにされているかについても。

しかし、それらの当事者でもなければ(あるいは当事者であっても!)そこから(あえて)目を背けることもやむをえないーーそのようなヒリヒリした空気が、まだまだそこらじゅうに漂っている。

この手の問題の発生源のひとつが「年甲斐」という観念である。
「年甲斐がある」という肯定的表現には通例用いられず、ほとんど専ら「年甲斐がない」という否定形として使われる言葉だ。

年齢とは、不可逆的なファクトだ。その意味で、年齢差別の殺傷力は、性差別や国籍差別、人種差別などと同等である。

「年齢相応の経験、能力、ふるまい」という「常識らしきもの」の実体は、個人の認知バイアスを寄せ集めた偶像だ。

ペンギンはいくつになっても飛べないのだが、飛ぶことを強要する者は実際に居る。相手自身の特性を認知せず、大雑把な「鳥のイメージ」に当て嵌めたいだけ。それは性役割や特定の人種などに対する偏見の構図と何ら変わりない。

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相手のいち側面が、己の(当人の認識では、しばしば「公共の」にすり替わる)認める基準に達しないとき、冷静に解決策を提案するより先に、相手を徹底的にやり込めようとする人がいる。
その際「年齢」「性別」「出身」「障碍」「病気」「容姿・容貌」など、相手の努力の埒外にあったり、改善に膨大なコストが必要となるような要素を引き合いに出すことが多い。(その方が攻撃しやすく、カウンターを受けにくいからだ)

内心で思うのは自由だ。筆者もやりきれない状況下において、頭の中でそのような攻撃をしてストレス発散を試みることはある。それほど気は晴れないが。
しかし、実際にそれを言葉にして本人に投げかけたが最後、そこにはただ後味の悪さだけが残る。

常識という名の偏見で武装し、丸腰の相手の急所を突く。これを常習的に行うーーまるで酒に呑まれるかのように、特定の相手を繰り返し攻撃しては、後味の悪さに酔い痴れてしまう人がいる。

そのような人の仕掛ける心理的ゲーム(通称「さあ、とっちめてやるぞ」と呼ばれる)に巻き込まれることほど不毛なことはない。

医師やカウンセラーでもない限り、可能な限り距離を置くか、正面から相手しない方が精神衛生上健全である。

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