見出し画像

ソーシャルメディアについて

自分はそろそろ62歳になる。こんな歳でツイッターをやっている人なんているだろうか?居たとしてもきっと有名文化人とか、一般の人であれば旅行とか、ゆとりある老人らしい趣味のことを書き綴っているのだろう。
現役で経済活動に励む人であれば投資やら資産のことなど。勿論、社会的信用と良識?を備えた「尊敬されるべき凡人」であることだろう。そんななかで自分はスマホさえ自分名義では審査も通らない。複数ある家内の通信キャリアのアカウントや端末を借りてはこそこそとツイッターをしていた。不思議なことにフォローだのフォロワーだのの若者が増える度、自分がもうこの世の価値観とは大きく乖離していることを思い知らされ、それは決して楽しいことばかりではない。特に自分には動物や自然を愛するという感情が大きく欠けている。生命に対しての執着の欠如、というと美化した言い方になるし、冷酷非情、というとそれも違うのだけど、例えば「おれは犬猫をに蹴りを入れる」といえば非難轟々、若者達の正義感の餌食とされ嫌われ、嫌がらせさえ受けてもおかしくはないだろう現実が想像できる。あらゆる不幸を生育環境のせいにはしないが、こればかりは幼少期に原因があるかも知れない。私がみて育った現実を、私を嫌う若者たちは知らない。おれは誕生日の贈り物はおろか、祝福の言葉さえ知らない。Xマスケーキやら家族で囲む食卓の温もりなども想像でしかない。同様に犬や猫などを可愛がる、それもヒト以上に愛情を注ぐ人たちに嫌悪の感情すら芽生えることがある。あれらは重篤な疫病を媒介する恐れだってある。生物兵器などを知られずに拡散するにも格好のツールにもなり得る。本来は人間に注ぐべき愛情を異常なまでに小動物にかける若者たちのツイートなどをみることは大変なストレスとなった。そういう私はどうせこの呪わしき性分に皆が気づいて離れていくことをこれまでも経験しているから。ところが自分は人間への慈しみには人一倍溢れているのか、どうか知らないが、これまで自分を構ってくれていた人々が一斉に踵をかえし、そそくさと離れていくと地獄のような気分に陥るから、いつもそうなってしまう前に、自分から先に離れるようにしている。これは致し方ない。
そもそも、自分名義のものなんて旅券ぐらいという私は、実在しないのと同じであり透明人間みたいな、亡霊のようなものなのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?