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足を食べる女 3 「あしをたべる」考

 体験者の方から話を聞いた後、僕と怪談仲間たちは様々な推理、考察を重ねることになった。
 そのメンバーには昔からの怪談仲間であるこたろー、空海、sks、こまつまつこ、その他の仲間たちもいた。
 Hは一体何者で何が目的なのか。
「あしをたべる」
「魔女とは違うんですけれど、呪術師になるための修行をしている」
 この言葉をはじめ、Hの行動やその他の発言、Hの特徴等について、あの頃の僕らが何を調べ、どうHを考えて行ったのか、追っていこうと思う。

 まず「あしを食べる」という行為についてである。
 何かの身体の一部を食べる、という行為は世界各国にあり、日本でもよく言われている。
「魚の目玉やヤツメウナギを食べると目がよくなる」
「ワカメを食べると髪の毛が生える」
 こんなことを聞いたことはないだろうか。
 魚の目玉はそのものだが、ヤツメウナギは文字通り目が八つある魚とされた。
 ワカメは見た目が豊かな髪の毛のように見えることからそういわれた。
 つまり、生物の優れた部分を食べて体内に入れることで、その部分に対応していい効果をもたらすと考えられた。
 しかし、今回のケースは足を食べて、足が悪くなっている。
 普通は逆である。
 何故だろうね、と考えていた時メンバーの一人が言った。
「何というか、食べることで悪いエネルギーを体内、というか足に貯めているんじゃないか。それを続けることで、蓄積したエネルギーを呪術として放出するというか」
 この一言が後に繋がりを持ってくることになる。

 次に「あし」という物が一体何かについてである。
 あし、と言っても様々なものがある。
 一体、何の足だったのか。
 食用に使うもので考えると最も一般的であるのが鶏の足である。
 次に考えられるものとして、イカの足、タコの足、豚足、牛の足回りの肉、蟹の脚、さらに兎の足、蛙の足、食べることは出来ないが、他に植物の葦などがある。
 ここで注目したのは一般的には日本ではあまり食用とされていないが、他の国では食用とされている兎の脚と蛙の脚だった。

 これら二つはこの中から抜きんでて象徴的な、呪術的な意味がある「あし」だからである。

 まず、蛙である。
 蛙は過去、日本でも食用ガエルとしてウシガエルなどを食べていた時代もあり、現在でも東南アジアをはじめ、中国、南アフリカなど食用としている国もあり、蛙肉は基本的に足の部分を食べる。
 蛙は日本、中国で幸運の象徴であり、特に三本足の蛙は幸運を招くとして有名である。
 青蛙神という後ろ足が一本だけの蛙の神が月にいる、という伝説が道教にあり、月とも非常に繋がりが深い。
 岡本綺堂の怪談小説「青蛙堂鬼談」もこの神を題材にされている。
 また、名前に「かえる」と字が入ることから、日本でも古来から縁起がいいものとされた。
「ぶじかえる」等の名前で交通安全のキャラクターに使われているのを見たこともある人も多いだろう。
 また、蛙がシンボルとして、一人の有名な武将がいる。
 日本最強の怨霊の一人、平将門である。
 彼のシンボルは蛙である。
 彼の死後、首が京都から飛んで帰ったことから必ず「カエル」にかけ、蛙を将門に供えると御利益があるとされた。
 現在でも東京大手町の首塚に行けば、数多くの蛙の置物を見ることができる。
 さらに蛙の足はオタマジャクシのころはなく、成長して蛙に近づくにつれて生えてくるという他の動物には見られない不思議な生態を持つことから「蛙の足」というものは、古来から神秘的な力を持つとも考えられていた。
 そこから蛙の象徴する意味として「復活」「生命」「豊穣」「再生」などの意味があり、現在でも西洋を中心に蛙の脚が幸運のチャーム、お守りとしてデザインされることも多い。

 次に兎である。
 兎は日本でも狩猟対象として古くからあり、現在ではあまり目にしないがかつては食用としていた。
 ヨーロッパでは古来より各地で食べており、フランス料理ではラパン、リエーブルと養殖、天然と区別する言葉があるほどジビエ料理の中でメジャーな食材であり、北米ではスーパーで手に入る地域もあるほどウサギ肉はメジャーな肉である。
 兎の足について、ラビットフットという非常に有名なお守りがある。不思議な力が宿るとされ、名前の通り兎の後ろ足を切り取って留め具に取り付け、携帯できるようにしたものである。
 アメリカ、イギリス、メキシコ等で人気があり、生命力、豊穣、幸運の象徴である。
 このラビットフットについては様々な由来がある。
 兎は穴に住んでおり、地底にいる精霊と交流をしているからそれにあやかるという説、兎は繁殖力が豊かであるから、それにあやかり繁栄を願うという説、他にも様々な説があるが、僕らが気になったのはその中のある説だった。
 一言でいえば、アンチ魔女の呪術であるという説だ。
 ヨーロッパで中世以降、一種狂乱のような魔女排斥の動きがあった。
 魔女裁判、異端審問である。
 魔女文化とは、キリスト教側から見て名付けられたもので、本来はキリスト教以前の人々が信仰していた地母神、女神信仰のことである。
悪魔たちの姿が角が生えていたり、顔がヤギになっていたり女体だったりするのはその名残である。
 彼ら「魔女文化」と呼ばれた人々が信仰していたものは様々な動物や女神たち、その動物たちのなかには兎がいた。
 兎は春の女神と結びつくと考えられていた。
 そこから兎の足とは、魔女の足を切り取ったものと考えられた。
 つまり、兎の足とは魔女を狩り殺した証として幸運のしるし、豊穣のしるしと考えられた。
 他の社会の文化のものに例えれば、戦った敵部族の遺体の一部や骨等を加工して持ち歩く、そんなものに近いイメージだろうか。
 そして、動物たちに対する反魔女の目は兎だけに留まらなかった。
 キリスト教、新約聖書ではほかの宗教に見られるような「化身の信仰」というものが存在せず、福音書の中でイエスがヨルダン川においてヨハネから洗礼を受ける際、神が鳩の姿を取って現れたという場面があるが、ほかの宗教と違い、例えば稲荷神の象徴としてキツネを祀るような「化身やお使いの信仰」はなく、一時的に鳩の姿をとっただけであり、神の化身として鳩が信仰されるということはなく、神が動物を使役してお使いとすることも基本的にはない。
 そこから、キリスト教ではない信仰とかかわりの深い動物を信仰したり、つながりを持つのは異教のあかしとして、魔女と繋がると考えられることになった。
 それは様々な動物が当てはまったが、例えば年を取るとまるで人間であるかのように髭が生えるヤギ、空を飛ぶ小動物の蝙蝠、さらにある動物が含まれた。
 生まれた姿と全く違う姿へ一種変身する生き物。
 しっぽが消え、足が生え水中から陸へ棲む場所さえ変化させる生き物、蛙である。
 蛙は最初に話したように道教という異教において神とされた生き物でもある。
 兎は日本にも強くイメージがあるが「月」のも前に触れたように「月」の象徴である。同じく蛙も前に触れたように「月」の象徴である。
 魔女の文化で「月」というのは非常に重要な要素である。
 さらに「豊穣」「生命」「幸運」などの象徴であることも共通する。

 兎の足と蛙の足。
 つまりこれらは二つとも反魔女文化の呪術なのだ。
 反魔女文化であるにも関わらず、呪術と言う言葉を使うのは矛盾しているように聞こえるが、そもそも呪術とは人間の力の及ばない効果や超自然的な現象をそれぞれの信仰や文化的背景の結果から人間の力で「コントロールする」「コントロールできる」と考えたものが呪術である。
 呪術とはAという結果を出すためにはBが必要であり、というように矛盾しているように聞こえるが、ある意味で科学的な思考によって構成されている。
 占いとは一種の未来予知であると言えるし、雨ごいや、幸運のしるしとされたお守りであっても、何かしら人知を超えた効果や影響を人間が人為的にもたらすために作られたもの、と考えればそれらはすべて呪術であると言える。

 最初の「あしをたべる」という行為、それと兎と蛙の足の考察を併せて見てみると魔女の象徴である蛙の足、兎の足、いわば魔女の体の一部を喰うことでそのエネルギーを体内にいれるということではないだろうか。
 さらに言えば、身体の具合が悪くなるとは、蛙の足、兎の足とは足の姿になってしまう時点で魔女たちが狩り取られた証、言ってしまえば怨み、辛みのこもった遺体の一部である。
 その負のエネルギーの塊である足を体内に入れることが最初の「あしをたべる」行為の「放出」という考えで触れたように、身体の不調の原因であり、食べることで負のエネルギーを蓄積したものを後に呪術として、エネルギーとして放出するという呪術の仕組み、意図があったのではないか、と考えた。

 Hが言った「魔女とは違うんですけれど」の一言がそこで思い出された。
 呪術師になるための修行、とその後に彼女の言葉は続いたが、何故最初に「呪術師」と言わず「魔女とは違う」という言葉を発したのか。
 それは彼女の頭の中に自分が行っているのは「反魔女文化の呪術をベースとした呪術」というイメージが強くあったからではないか。
 そこまでして、一体彼女は何を成し遂げようとしているのか、その目的はやはり「父の子を産んでいるんです」という言葉に繋がっているのではと僕らは考えていた。

 直近で考えなくてはいけない問題として「最近暑いので、冷たいものを持っていきますね」と言ったHの言葉。
 これは食べない方が良さそうだ。
 そこで考えたのはその「冷たいもの」が出た瞬間に「それ私アレルギーでダメなんですよ」と言って断ろう、ということになった。
 さらに体験者の方は「次回、ボイスレコーダーを部屋に置いて、録音してみようと思います」と仰っていた。

 一つ、僕らと体験者の方はHの言葉の中でとても気になっていたことがあった。
「父の子を産んでいるんです」
 と言ったH。
 ならば、そのHと父との間に出来た子は今、どうなっているんだろうか。
 Hがカルテに書いた年齢と、語った言葉が真実ならば、Hがその子を生んだのは18歳の時。
 ならばその子は現在17歳になっているはずであった。

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