土地遣い 14 土地遣い
色褪せたビニールの暖簾をくぐり、丸梅商店のガラス戸を開ける。
こんにちは、と中にいたサチコばあちゃんにかける声が若干引き攣った。
緊張していることをこの時やっと自覚する。
今までの一件について自分の中で考えた仮説が正しいことを確かめるために、ここへ来たのだ。ここで待っていれば他の老人たちも顔を出す。
仮説を考えたものの、こんな事があるのかという思いもあり相当な数の実話怪談を聞いている僕でもこのようなケースは聞いた事がないため、自分の中で疑っている部分もあったのだと思う。
「おう、まだ来たな、あたれあたれ」
そう言って、相変わらずコタツにあたっていたサチコばあちゃんはコタツ布団をめくった。
僕はまた板チョコとペットボトルのカフェオレを買って、コタツへと入った。
「おめえ、いつまでここさいんだ」
「明日あたりには帰る予定なんです、家内も今妊娠しているので子供生まれたらまた来ますよ」
しばらく雑談をしていると、老人たちが集まってきた。
前に訪れた時と同じ面々である。
おめえ、また来たのかと笑いながら声をかけてくれる。集落では他の若者と話すこと自体が珍しいのである。老人たちは嬉しそうだった。
雑談をしている間も僕はいつ言い出すか、タイミングを伺っていた。
言い出すのが怖かったんだろう。
会話の途切れ目で、決意して言葉にした。
「そういえば、あの後トウコさんのとこに行ったんです」
老人たちの顔が一瞬固くなった。
「彫山さんとこの車庫と、車、色々あって新しくなったんですね」
少し沈黙があって、老人の一人が口を開いた。
「そんだべ、あそご、わざどやってんだがら、セイジあんちゃ」
やっぱりな、と仮説が確信に変わった。
鳥肌が身体を駆け抜けた。
セイジさんが行っていたことを考えているうちに、だんだんおかしいと思うようになっていた。
土地の乗っ取りに関する疑惑。
土地の神から返答を待たずしての着工。
ゴミを投げ入れ、宗教的儀式を行わないままコンクリートで蓋をした井戸。
香峰神社に放置された旧彫山家二つの位牌。
何故、こんなことを。
いわゆる忌み地というもので今までに聞いたことのあるケースは、例えば井戸があることを分かっていながら、宗教的儀式を行うことを面倒がったり忘れたりしたために起こるもので「こんな不幸な事になるとは思わなかった」と殆どの当事者は思っている。つまり大きく言えば”過失”だ。
セイジさんのケースは一つだけの事柄ならば過失だったかもしれない。しかし、これだけ数があるということ、さらにセイジさんの言動、行動を追うと明らかにそこに当てはまらないのだ。
地鎮祭のことをあまり集落の人が僕に語ってくれなかったのは、恐らくこの点だ。井戸塞ぎをしようとしたカンちゃん親子を止めて「今度でいい」と言いながら儀式を行わずに塞いでしまうというのは明らかに故意である。
集落の人が地鎮祭の事を言いたがらないのは、この話をすれば、セイジさんが故意であったことを外部の人間が気づいてしまう可能性があるからだ。
そうなれば、言い出した本人はセイジさんに恨まれる可能性すらある。
着工までに日にちを空けなかったのも、わざと業者とカンちゃん親子をバッティングさせたのだ。土地の神の返答など待っていたら工事が出来るはずがない。井戸にゴミを投げ入れたのもそうだ。
もう一つ、位牌の件である。
これも意味を分かっていながらあえて放置したのだ。
端的に言うと、セイジさんはこれらの行為をわざと行っている。
全ては”故意”なのだ。
僕がこのことについて、集落の共通認識としてあるのだと思ったのは、老人たちの会話である。
第6話丸梅商店の記事を思い出してほしい。
「彫山さんの土地って悪い事一杯ありますけど、彫山さんの家とか道路挟んだあっち側の土地はなんともないんですか」と聞いた僕に老人たちは「おめぇ、ほんになんも知らねえんだなぃ」と呆れていた。
「ねぇよぅ、悪ぃごどなんちゃ」
「彫山さんどごは車もあだらしい(新しい)のさ変えてよう、車庫もあっぺな」
と老人たちは答えた。
「何にも知らねえんだなぃ」「ねぇよう、悪ぃごどなんちゃ」と言うのは、家の土地は悪いことなどある訳がない、そこは当たり前に正常な土地であると思っているからだ。
正常な土地というのはセイジさんが何もしていない土地、シェパードと車庫の土地はセイジさんが行為を行っている異常な土地であると比較している認識があるからである。
だからその背景を知らずに言った僕の言葉に呆れたのだ。
この流れで突然車と車庫が新しくなった話も、背景を知らない状態で冷静に考えると流れとしては違和感がある。
何故、この流れで突然車と車庫が新しくなった話を老人たちがしたのか。
それらはセイジさんがあの土地に、わざとやったことの成果であると老人たちが思っているからだ。
不幸なことがあると、ある意味で得をする仕組みが世の中にある。
そう、保険金である。
集落の人の共通認識、そして僕が考えた仮説とは、あえて忌み地を作り出し、その土地の上にあるものに対して多額の保険金をかけているということだ。
集落の人々も考えたのだろう。
何故こんなに祟られそうな事をセイジさんはわざとあの土地でしているのだろう。
そのうちに次々と土地の上に凶事が起きて、車や車庫がどんどん新しくなっていく。
車が高級車に変わり、車庫は大きくなっていく。
僕が実際にシェパードの土地に行ったときにメモした高級車と屋根付きトラクター、立派な車庫は凶事の後に全て新しくなったモノ達だった。
僕の実家のような田舎では、集落の人々は車や家等財産をよく見ている。
その結果、彼らも気づいたのだ。
だからセイジさんはわざと、自分が住んでいる土地とは違う土地にあるモノに保険金をかけているのか。位牌を家に入れないのは、その厄を家に呼びこませないためでもあるのだ。
凶事を呼び込み、富へ変換するために作られた土地。
そこが、旧彫山家の土地だったのだ。
ここまで考えて、一つぞっとしたことがある。
カンちゃんの父はこう言っていた。
【エリちゃんとセイジさんは仲が悪くてよくセイジさんがなる(※大声で怒鳴る)のを聞いてたげんじょも、エリちゃんのためにシェパードと車庫建ててからはセイジさん大人しくなったんだ、大したもんだ、がなっててもやっぱり嫁は嫁だ、めげえ(※可愛い)んだべ】
僕は、その答えがカンちゃんの父親と恐らく違うだろうと思いながら老人たちにあえて気づいていないふりをしてぶつけてみた。
「シェパードって、エリさんのために建てたんですよね、エリさんが働ける場所を作るためにって」
すると老人たちはこちらを見ず、鼻で笑いながら冷たくこう言った。
「わがってんべ、おめぇ、パーマ屋こしぇれば(※建てれば)エリだけがあそごにいっこどになっぺや」
「もうわがんべよ、金のためにあそごはあんだぞ」
あぁ、やっぱりかと思った。
はっきりと老人たちは断言しなかったが、これはそう言っていると同じ事。
生命保険だ。
保険金をかけているのは土地の上にある”モノ”だけに限らなかった。
きっと、エリさんに多額の生命保険をかけている。
あの土地に作るのは家や別宅ではダメなのだ。そこに居ることになるから、凶事を自分たちが被る。
不自然なく、長時間居てくれる場所、しかもセイジさんと仲の悪いエリさんだけが。
その考えた結果がエリさんだけの職場となるシェパードを建てることだったのだ。
もちろん、エリさんはこれに気づいていない。
当たり前である、こんなその人の家に関する悪い噂を本人に言うはずがない。だからエリさんも「この土地では何故か凶事が起こる」としか思っていないはずだ。
エリさんの身に何かあれば、また多額の金が舞い込む事になる。それを恐らくは意図している。
忌み地を作って、富を得る。
土地遣い。
これらすべてはセイジさんが作り上げた。
不能犯、という刑法上の概念がある。
不能犯では犯罪的結果の発生は意図しているが、その行為の性質上当該結果を発生させることがない、と言うものである。
Aという人物がBという人物を殺害するために呪いをかけたところ、Bはそのうちに死んだとする。
しかし、Aはたしかに殺すために呪いはかけたが、その呪いによってBが死んだという因果関係を科学的に立証する事は出来ないため、Aが罪に問われる事はない。
これが不能犯である。
まさに、セイジさんが行ったこれら行為は不能犯なのだ。
セイジさんはなんら罪に問われる事はない。全ては何が起ころうと合法である。
こんなことになるとは、最初は全く思ってもみなかった。このような話をまるで聞いたことが無かったからだ。はじめは旧彫山家の土地を乗っ取ったことから始まる”過失”の凶事だと思ったのだが、これは利益のために”故意”に作り出された土地だった。
こう考えると全ての辻褄が合う。
一件目の転倒事故死者、セイジさんの妻であるトヨさんの葬儀の時にセイジさんが「堪忍してけろ、堪忍してけろ」と泣き叫んでいたこと、二件目の転倒事故に関する葬儀の時に母が感じた「セイジさん、自分のせいだって思ってたな」というのはある意味で正解だったのだ。
あそこで凶事が起こるようにすべてを作り上げたのはセイジさんだったからだ。
ここからわかるように、この忌み地は作り上げたものの、作った本人であるセイジさんにすらコントロールが効くものではなかった。
土地は無差別に人を飲み込み、不幸を吐き出し続けていく。
ただ一つだけ、引っかかっていたことがあった。
たくさんの人から話を聞いている時に気になったことだ。
「現彫山家は、旧彫山家から遺言で土地などもらっていないはずだ」
「二つの家は苗字は同じだが、親戚ではない」
この土地乗っ取りに関する件で話を聞いていると、中には「遺言でもらったのかもしれない、それはわからない」という人がある程度いた。
土地はもらっていないはずだ、という人に僕が「でも遺言は誰か他の人が見たわけではないんですよね、じゃあもらったとセイジさんが言っているだけなんですかね」と返すと「んだがら、本当はもらってんのかもしんねえげんじょもな」というように、確定要素としては言わない人も中にはいるのである。
そこについてはそういうもんなんだ、と少し意外に思っていた。
しかし、親戚関係についてだけは違う。
これだけは集落の老人たちはかたくなに「親戚ではない」と否定するのだ。全員が口を揃えて「親戚では絶対ねぇ、あれは違んだ」と言う。
少し押し気味で話してみると「そんなわけねえべな、おめえわがんねえのか」と呆れられたこともあった。
何故親戚関係についてはそこまで自信を持って答えるのだろうか。
土地については多少の意見のばらつきがあるのに。
これはきっと山村の集落だから血縁関係をよく把握しているからだろうと、多少引っかかったものの、そこまで気にしてはいなかった。
そんな事よりも、この土地遣いについて気づいてしまい、丸梅商店の老人たちとの話から確信に変わったことがショックで、またわざと忌み地を作り出して利益を得るという事の類話が聞いたことがないことに驚いていた。
「現彫山家と旧彫山家は絶対に親戚ではない」
この意味について分かるのは、もう少し時間が経ってからの事だった。
闇はまだ続く。
そしてこの闇は、僕へとも続いていた。
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