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【学び直し】アダム・スミスを読んでみたい④才能をシェアする社会~フェアトレードの原点か

(引用元)
アダム・スミス(著)高哲男(訳)「国富論」(上)講談社


はじめに

今回は、第一編第二章にあたります、「分業を引き起こす原理について」です。

これまで、「分業」の成果についてまとめられており、イノベーションや、エッセンシャルワーカーなど、現代にもつながる重要な示唆が見られました。

本章では、そもそも「分業」が起こる理由についてスミスの見解が記述されています。

非常に深い考察が行われており、ある種の哲学的な要素も垣間見られました。

また、その思想は、現代の「フェアトレード」の思想にも通じるものがあったと感じています。

以下、今回の引用ポイントです。


今回の引用ポイント

それぞれの才能が作り出すさまざまな生産物は、交渉し、交換し、取り引きしようとする一般的な気質によって、共同資産ーー誰もが他人の才能が生み出した生産物の一部を何でも購入することができるところーーへとまとめ上げられる訳である。

これは、第二章のまとめにある部分の記述になるのですが、それまでの議論を若干補足しますと、まず、人々には、才能や性質の差があり、その差がそのまま職業の違いにまでつながってくると論じられています。

単に才能や性質の差というだけでしたら、同様の差は動物にも見られるわけですが、人間と動物との決定的な違いは、協調的な(ただし、個々の「人間愛」ではなく、「自己愛」に基づく)行動をとるかどうかであると指摘されています。

つまり、「私を助けてくれたら、あなたも欲しいものが手には入りますよ(満足しますよ)ということを相手と約束することが、人間にしかできないことであり、この一種の「契約」に基づいて、「交換」をしようとする「気質」「分業」をもたらすのだと主張されているわけです。

な、なにを言っているかわからねーと思うが、私も最初は?だったぜ・・・(°°;)


交換・取引がもたらすもの

中々にハードな文章でしたが、重要なポイントがいくつかありました。まずは、「交換」、あるいは「取引」を前提とする社会に関する言及についてです。

人間や動物が才能及び性質の差をもって活動していることは自明のことと思います。(スミスは、人間についてのこの差は、ほとんど後天的なものだと指摘しています。)

しかし、その才能を活かすためには、その人に与えられた時間の多くを、その才能が寄与する活動に配分しなければ、結局のところ成果には結びつきません。

つまり、才能を活かした活動に時間を費やした代わりに、そのほかの部分は他者の協力が必要になるということですね。(すなわち他者と「分業」するということを意味します。

これは、スミスは、人々がそれぞれの才能から成果をもたらすために、自ずと「分業」が行われるよ、ということを述べていると解釈できますね。

このように、他者との交換・取引を前提とする社会が「分業」をもたらし、それによって、それぞれの才能を活かすことにつながり、結果、それぞれが生産したものを交換するに十分な効率性が得られる、ということがわかります。

社会は才能をシェアすることで成り立っている

スミスの言葉にもありますが、世の中に、全くの一人で、誰の助けも借りず生活している人というのは、恐らくほぼいません。

私たちは、当たり前のように服を着て、食事をし、家の中で寝ているわけですが、それらは世界の誰かが生産し、市場に供給されたものであり、それらをなくして、現在の生活はあり得ません。

私たちが、各々の仕事に専念できることも、それは代わりにどこかの誰かが、私たちのやらない仕事をやってくれているからです。

私自身、自分が才能を生かした仕事をしているという自覚はないのですが、それでも、自分が満足できる仕事をできていることは、他者との「才能のシェア」があって初めてできることなのです。

才能は「共有資産」だが・・・?

スミスは、人々がこの交換・取引をもたらす気質をもった結果として、才能が共有されることを「共有資産」(コモン・ストック)と呼んでいます。

社会にこの「共有資産」を作り上げること、すなわち、「分業」し、才能をシェアすることで、より大きな恩恵を得ていると述べています。

シェア・エコノミーなるものが、昨今話題になったりもしましたが、そもそも社会が成立する前提条件としてシェアが行われている、という考え方については、普段思い至らない観点で、新鮮に感じられますね。

ただ、若干違和感を持ったところもあります。

そのこと自体は明示されてはいないのですが、スミスの認識としては、分業によって、技量が向上することも含めて「才能」と表現している節が見られます。

そういう意味では、才能とはおおよそ後天的で、その仕事に従事すれば個人は才能(技量)を高められる理解だったとおおよそ判断できるかとおもいます。

社会が才能をシェアし、そこから成果を得るための重要な条件は、個々が才能を生かせる状態にあることです。

しかし、現実には、必ずしも本人の才能に適した職業を得られているとは限りませんし、その業務に従事したとしても、確実にその業務内容に対して才能が発揮されるとも限りません。(環境的な制約も考えられます。)

実はこのことが後々リカードの理論にも影響を与えていくことになるポイントだと思いますが、それはまた機会があるときに触れたいと思います。

ただ、この違和感が、この「才能をシェアする社会」の価値を減じるものでも何でもないので、やはり、この深い考察には感服しました(*゚Д゚)

まとめ

今回もやはり盛りだくさんでした。

しかも若干抽象的なお話が多いので、理解しづらい部分もあったかと思います。(私の力量不足も多分にございます・・(>ュ<。))

シェアリングエコノミーは、昨今意識が高まっている持続可能性へのアプローチとしての文脈で聞かれることが多いですが、実は取引をする社会はそもそも、才能をシェアしあう前提があって成り立っているものだったんですね。

だとすると恐らく欠けてしまっているのは、「シェアしていることに対する意識」だと思われます。

普段意識しなくても、お互いに面識がなかったとしても、人々は社会のどこかで、シェアしあって生きているのです。

「困ったときはお互い様」ではないですが、その意識があれば、いろんな意味でもう少し人に優しい社会になれるのではないかなぁと感じたりもします。

「フェアトレード」が志向していることも、おそらくこのような考え方に依拠するのではないかなと思いました。

今回も長くなりました。(できれば2,000字以内くらいを目指したいです(;´Д`))

ではまた次回(・∀・)ノシ

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