不意に泣きたくなる。

不意に泣きたくなるときがある。

きっとそんな台詞を吐いていい人間は限られていて、鈍器のような中年のわたしが発すれば事案だろう。

でも、夕暮れどきに最寄駅から自宅へ向かう線路沿いの道で涙がこぼれることだってあるのも事実なのだ。そして、一粒でも流れてしまえば、あとはもう華厳の滝である。

ただ、夕暮れどきに自宅から最寄駅へ向かう線路沿いの道は輝かしい未来にあふれた高校生たちが下校する道でもある。すれちがう父親とほぼ変わらない年齢の男が仕事帰りの青ひげを濡らしながら歩いていれば、将来に無用な不安を与えてしまうかもしれない。

だから、わたしはいつも冷蔵庫のすみっこで干からびているきゅうりのことを考える。こうするとなぜか頭のなかにある悲しみが消えさってくれるからだ。でも、「きゅうり、きゅうり、冷蔵庫のすみっこで干からびているきゅうり」などと呪文をぶつぶつ唱えながら歩けば、それはそれで通報されてしまいかねない。

そこで、わたしのような涙なくして語れないタイプの人間のために号泣できるマスクがほしい。外から見えない防音の素材で顔だけが覆われていて、いつでもどこでも頭からすっぽりかぶるだけで、人目をはばからずに涙を流すことができるのだ。ちょうどガスマスクのように。これでまた不意に泣きたくなってしまったら、線路沿いのフェンスにでも寄りかかりながら、好きなだけ体を震わせればいい。

事案である。

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