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河合隼雄氏の愛弟子が綴る衝撃と感動のドキュメント――『それでも生きてゆく意味を求めて』プロローグ全文公開

「いまから母を殺しに行きます」やや上気した表情でわたしにそう告げて、バッグからナイフを取り出し、この女性は立ち上がった。向かいに座るわたしを見下ろし、「いいですね」、と――。

そんな緊迫したやりとりを、20代の女性と交わすところから本書は始まります。著者は、河合隼雄氏の愛弟子として40年以上の薫陶を受けてきた臨床心理士。多くの人々の相談に応じてきた心理臨床の実践を、専門家ではない人たちにも理解していただきたいという思いから、本書は綴られました。

脳性麻痺を患った少年から教えられたこと、3か月間沈黙したまま去っていった青年など、時に難渋し、時に激しく苦悩しながら、目の前の相手(ひと)との出会いにすべてのエネルギーを傾け、その相手を知ろうとする覚悟を持って向き合ってきた幾多のやりとりが生々しく語られます。

著者は「生きることの苦悩に向き合う臨床家は、その苦悩に押し潰されてはならない。そこから逃げ出してはならない」と述べます。それぞれに辿ってきた人生は様々ですが、深い悲しみや苦悩と対峙し、その人生を引き受けて生きていこうとする人々の姿と、その苦悩に寄り添い、ともに生きようとする著者の姿勢に深く心を打たれます。読後に、心の奥底から生きる力が込み上げてくる一冊です。

以下に本書のプロローグの全文を公開いたします。

『それでも生きてゆく意味を求めて』 皆藤章・著

「いまから母を殺しに行きます」

やや上気した表情でわたしにそう告げて、バッグからナイフを取り出し、この女性は立ち上がった。向かいに座るわたしを見下ろし、「いいですね」、と。

何もいえなかった。これまでなんどもなんども、くり返し、母親への憎しみを語ってやまなかったこの女性のこころの内を慮ると、応えることばがなかった。「やめなさい」などとはよもやいえなかった。そういおうものなら、「先生はわたしの苦しみをわかっていない!」と、なじってくるだろう。

その姿が目に浮かんだ。いや、正直にいえば、殺したいと思っても不思議はないだろう、そう感じる自分さえいた。しかしもちろん、それを認めるわけにはいかない。いったい、どうすれば良かったのだろう。

すでに成人を過ぎたこの女性は、まだ幼いころ、工事用の土砂が山と積まれた家の近くで遊んでいたとき、事故に遭って、生涯消えない傷を身体に負うことになった。近所のひとと世間話に興じていた母親の目が離れた隙に起きた事故だった。母親の不注意だといって済まされる程度の傷ではなかった。深い反省と罪悪感を抱えた母親は、それから一心不乱にこの子を育ててきた。

けれども長ずるにつれ、事故のせいで周りと比べて明らかに異なる自分の容姿はこの女性を苦しめた。母親への憎しみが募っていった。あれ以来ずっと、好奇の視線を浴び、身を竦めて、この女性は生きてきた。聴くたびに、塗炭の苦しみだっただろうと思う。あんなことさえなかったら、自分の人生はいまとはちがっていた。そう何度も、わたしに語ったものだ。

身体の傷は、その事故をなかったことにはできないと語っていた。消すことのできない過去を背負って、この女性と母親は20年近い人生をともに生きてきた。その人生は、この女性にとって、ただ母親への憎しみを募らせるだけのものだったのだろうか。母親にとっては自分の娘に懺悔をくり返すだけの人生だったのだろうか。

わたしはこの女性から、こころの臨床の場で、もう何年も話を聴き続けてきた。そのたびに、その憎しみの深さとかなしみを知り、予定調和とはほど遠い人生の不思議を感じてきた。なにかできることはないか、そんなふうにもがいてみたこともあった。ゴールの見えない、ふたりしての旅の道往きは、どこに行き着くのか皆目わからない、はてのないものだった。もちろん、母親の話に終始したわけではない。大学で専攻する研究の話や趣味の水彩画の話、飼っている猫の話、そしてときに(夜に見る)夢の話など、幾種類もの話が旅の道すがらにあった。

けれども、それらの話は畢竟、身体に負った傷のことへと向かっていくのだった。それほど、この女性の身体の傷は日常生活の到るところに顕現していた。

ナイフを手にしたこの女性に見下ろされながら、これまでの道往きが走馬灯のように浮かんでは消えていった。

いつしか、わたしの目から涙が溢れてきた。その姿を見せまいと堪えるのだが、呻き声とともに、涙は零れていった。そんな姿を、この女性はどんな思いで見ていたのだろう。きっとわずかな時間だったにちがいないのだが、途方もなく長く、苦しく感じる時間だった。

そのうち、ナイフをバッグにしまって椅子に腰掛けたこの女性は、静かにいった。

「もう二度としません」

嵐の海が凪いだようだった。そんなことばが、いったいどこから生まれてきたのだろう。この女性になにが起こったのだろう。わたしにはわからなかった。おそらく、この女性もどうしてそんなことばを口にしたのか、わからなかったのではないだろうか。

こんなことがあってから、身体の傷へと収斂していった話は、その方位を変えていった。母を憎んでばかりいては自分の人生が台無しになるとか、いつまでも母を憎んでいたところでわたしの人生はどうなるわけでもないとか、そんなことばがときおり口をついて出るようになっていった。

それからしばらくして、母親の不注意で生涯消えない傷を負わされ、そんな母親に憎しみを抱き続けてきたこの女性に、こんな語りが生まれた。

「どうすれば母を許せるようになるのでしょうか」

そのことばは、この女性のこころのなかに、一心不乱にわが子を育ててきた母親が息をし始めた兆しのように思われた。この女性が自分の人生を引き受けていこうとし始めたときのことだった。

人生を引き受ける。いまにして思えばそれは、現在を生きるこの女性が、母親への憎しみを募らせて生きてきた過去の物語と、母親を許して生きていこうとするこれから先の未来を生きる物語をつないでいくことであるように感じるのである。

この女性に出会ったのはもう30年以上も前のことである。専門家として人間のこころのまさに不可思議な境地を歩き始めたころだった。「生老病死」という仏教由来のことばがあるが、この最初の文字「生」は、生きるということであり、またこの世に生まれるということでもある。

すなわち、この世に生を受け生きる、そのことが人間にとっての根源的な苦悩だと説く。生きる道往きには、病いの床に伏すときもあるだろう。齢を重ねてやがて老いを迎えることだろう。そしていつしか死に逝くときがくる。人生にはこれら根源的な四つの苦悩(四苦)があるといわれている。このような、苦悩の渦中にあるひとの語りを聴くのがわたしの生業である。

一般的にはカウンセラーと呼ばれているが、ここでは臨床家と呼んでおきたい。ただひたすらに語りを聴き、語り手とふたりしてその人生の物語が編まれる道往きをともにする。それは、この女性とのやりとりが教えるように、容易なことではない。まさに生命がけといっても、けっしていいすぎではないだろう。

長い人生の道往きの途上、ひとは誰でも、できることならばなかったことにしたいというエピソードをいくつか抱えていく。けれどもそれらを普段つねに意識しているわけではない。なにかをきっかけにして、まるで導火線に火が着いたかのように、それらはやってくる。そして、こころに棘が刺さるような、そんな痛みを身に味わう。じっと、その痛みが消えていくのを待つ。そのような経験は誰しもあるだろう。くり返しやってくる痛みのその程度も、長い時間の経過とともに和らいでいく。

そしていつしか、あんなこともあったなあと、ふり返るときがくる。そうであるなら、ひとは耐えることができる。抱えて生きていくことができる。けれども、人生には、なにがあっても消えない、消せない痛みがある。そのような消せない痛みとともに、ひとはどのように生きていくのだろうか。

数年前、「犯罪史上まれにみる悪質さ」と裁判長が断罪した殺人事件の死刑判決がニュースに流れたことがあった。映像は、いまも痛みが消えない、娘を殺された家族のインタビューを映し出していた。まさに家族は、その事件以来、消えない痛みに苦しんでいる。ただ、それは他人ごとではない。自分はそんな悲劇には見舞われないといい切れるだろうか。

それぞれの人生のなかで、そのときどきに出会う諸々のことを、ひとは抱えて生きていかねばならない。長い人生のなかには、予期せぬこともやってくる。それが喜ばしいことなら、それを糧にさらに前を向いて生きていける。けれども、それが辛く苦しいことなら、そこで立ち止まり、先に踏み出す力を蓄えていかなければならない。

そのようなときに、そのひとの傍らにいて、力が蓄えられていくときの歩みをともにする存在、それが臨床家である。それは、現在を生きるそのひとが、これまでの人生と現在とをつないで、そうしてこれから先の人生を生きていこうとする、そのような人生の物語の道往きをともにする存在でもある。

当時のわたしは、臨床家になるための訓練を始めて10年ほどが経ったころだった。まだ、語りに耳を澄ませて悩みや相談ごとを聴き、それを理解すること、そのことだけに一心不乱だった時代である。この時代、聴くことに迷いが生まれると、指導や助言をしてみたくなる。ただ、そうしても、「あなたになにがわかるの?」といった視線を返されることがほとんどである。できることはたったひとつ、語りを聴くことしかない。ただ、これがいちばんむずかしい。

訓練を積んでいくと、語りを聴く、そのことをとおして語り手の内に新たなことばが生まれることを知っていく。そのことばが語り手の人生の物語を紡いでいく一本の糸になることを知るようになる。そして、そのことの積み重ねによって語り手の人生航路が開けてくるときに立ち会う。だが、そのときがいつ来るのかは、誰も知らない。作為的にそのときを設定することなど、できるわけもない。ただ、そのときの気配を逃さないように待つこと、それまでもちこたえていくことを訓練されるのである。

この女性にもそのときはやってきた。だが、どうしてそのときが訪れたのかは、いまもってわからない。けれども、いまにして思うと、わたしが涙を流すことしかできなかったあのとき、この女性とわたしは同じこころの地平に在ったのではないだろうか。「もう二度としません」とのことばが生まれたあのとき、ふたりはひととしてのその根源にある「かなしみ」にふれていたのではないだろうか。この点については、あとで詳しく取りあげてみたい。

臨床家として、このような機会に幾度か出くわしてきた。そしていつしか、子どものころから不即不離に抱いてきたある茫漠とした思いがことばになっていった。それは、ひとがこの世に生を受けそれぞれの人生の物語を紡いでいくということ、人間とはいったいなんなのか、そうしたことへの深い関心であった。

ところで、行乞流転の旅を生きた種田山頭火は、こんな句を残している。

  生死のなかの雪ふりしきる

「生死」とは大乗仏教における「生きることの苦悩」を意味する。すなわち、生きとし生けるものは苦悩を抱えて雪の降りしきる道を歩いていくのだ、そう山頭火は自身の体験を句にしたわけである。

山頭火にかぎらずとも、濃度の差こそあれ、それは誰しも人生の物語を紡いでいくなかで味わっていることではないだろうか。アウシュビッツの地獄を生き抜いた実存心理学者のヴィクトール・フランクルはそのことを、ホモ・パティエンス(Homo Patiens)すなわち苦悩する人間と表現したが、それは人間(ヒト)を意味するホモ・サピエンス(Homo Sapiens)になぞらえてのことばである。すなわち、人間は誰もが苦悩するものなのだというのである。

山頭火は、「解くすべもない惑いを背負うて行乞流転の旅に出た」。山頭火の「解くすべもない惑い」とは、解決する方法のない「惑い」とは、なんであったのだろう。それは畢竟、「生きることの苦悩」すなわち人生ではなかったろうか。山頭火は、人生という生きることの苦悩を抱えて雪の降りしきる道を、行乞流転の旅を生きたのである。その旅をとおして、山頭火の人生の物語が紡がれたのである。山頭火の生きた時代よりも100年以上を経た科学隆盛の現在もなお、「生きること」は解くすべもない不思議に満ちた物語であるように、わたしには思われる。

生きることの苦悩に向き合う臨床家は、その苦悩に圧し潰されてはならない。そこから逃げ出してはならない。そして、その苦悩はけっして他人ごとではなく自身の身にも降りかかる可能性があるのだということを知らねばならない。そのために、厳しい訓練を積む。

そのひとつに、自身もまたみずからの人生航路の軌跡を語ってふり返り、「わたしとは何者か」について徹底的に考える教育分析(以降は「分析」と略)という訓練がある。 分析における聴き手は教育分析家(以降は「分析家」と略)と呼ばれる。わたしは、訓練を始めて7年目が過ぎたころ、臨床家としての道往きのもっとも辛く苦しいときに分析を体験した。そのときから10年余に亘って、分析家としてわたしの傍らでともに歩いてくださったのは、河合隼雄先生だった。

思い返してみればわたしは小さなころから「生きること」の不思議に取りつかれてきた。自分はどうしてここにこうしているのか、そんなことを思い始めると足下が震えてくることもあった。「生きること」。それは自分の意思で始まったものではない。

自分がこの時代に、この場所に、そしてこの親のもとに生まれてきたことは、なにも望んだことではない。しかも、それにもかかわらず、これらのことは自分の人生に深い影響を与えている。わたしにとってまさに「生きること」は、古稀に届こうとする現在もなお、問うても答えのない、与えられた試練であるように思う。

この人生という不可思議な営みを、科学的に説明することはできない。いくら遺伝子レベルで説明されたとしても、「生きること」の不思議は去ってはいかない。そして、これもまた実に不思議なことなのだが、結局のところわたしは、「人間とはなにか?」「生きるとは?」を考える臨床家という生業を生きているわけである。

わたしの前に座って、クライエントたちはこうしたテーマを語ってやまない。ことばでなくとも、視線や物腰、立ち居振る舞いでもって、子どもなら遊びでもって、とにかくなんらかの表現でもって、望んで生きることになったわけでもない自身の人生を語ってやまない。そうした語りを聴くにつれ、いったいぜんたい、人間が生きるとはどういうことなのだろうとの思いが巡ってくるのである。

このように、わたしの人生の物語はクライエントとともに紡がれて現在にある。また、分析のころのわたしは河合隼雄という聴き手とともに紡がれてあった。そうした語り聴きからの学びをここに記してみたいと思う。それは、AI時代が到来し科学の知が人間の営みにさらにいっそう浸透しつつあるこの時代にあって、臨床の知を伝えるささやかな試みでもある。